「世界の絶景13選」に選ばれた二重のカルデラを一望する

八丈島を出発してから約20分、特徴的な楕円形をした小さな島が見えてくる。絶海の孤島「青ヶ島」だ。

島の全体面積は約6平方km。上空から見ると、お菓子のカヌレを内に抱えたような、「外輪山」と「内輪山(丸山)」からなる、世界でも珍しい二重のカルデラを一望できる。2014年にアメリカの環境保護NGO「One Green Planet」が発表した「死ぬまでに見るべき世界の絶景13選」に選ばれているためか、私が滞在している間にも3組ほど外国人観光客を見かけた。

青ヶ島が二重カルデラ構造になったのは、1785年に起きた天明の大噴火の影響と言われている。気象庁のホームページに記載されている青ヶ島の有史以降の火山活動履歴を見ると、大噴火によって、当時の島民327人のうち130~140人が死亡したと推定されている。

天明の大噴火から50年後に、青ヶ島の再興が宣言された

島民の人たちに当時の歴史について話を聞くと、生き残った約200人の島民は、約70km離れた八丈島へ避難し、青ヶ島は無人島と化したという。しかし、その頃の八丈島は天明の大飢饉真っ只中で、八丈島民ですら食事に困っている状況だった。そのため、避難してきた青ヶ島民は肩身の狭い思いをしたそうだ。

「青ヶ島に戻りたい」と願い帰島を試みる人もいたが、波風の強い断崖絶壁の島には容易にたどり着けず、夢半ばで息絶える人がほとんどだった。まれに到着できても、ねずみに荒らされ砂と岩だらけとなった土地では食物が育たず、生活そのものが困難を極めた。

それでも青ヶ島民は諦めず、1817年には島民の佐々木次郎太夫が中心となって、段階的に帰島事業が進められた。これにより、1824年には全青ヶ島民の帰島が実現。そして天明の大噴火から50年後の1835年、ついに青ヶ島の再興が宣言された。この出来事は「還住」と呼ばれ、佐々木次郎太夫は今でも「島の英雄」として語り継がれている。