プロクルステスの寝台

こういう思考で戦略をつくり、会社を起業するに至った出口さんの原体験は何だろうか。とあるビジネス雑誌で出口さんと対談をさせていただいたときにお聞きした話だが、「ワークライフバランス」などという言葉がなかったころから、出口さんは「早く仕事を済ませて家に帰って本を読んで好きなものを食べてゆっくり寝たいな」と思っていた。

逆説的に聞こえるが、「仕事がイヤで早く終えたくてたまらなかった。そのおかげで仕事が面白くなった」と出口さんは言う。だから「考えてからやる」という姿勢が身についた。早く帰って仕事以外の好きなことをやりたいものだから、なるべく早く終わるように、ひとつひとつの仕事について「この仕事の本筋は何か。どうやったらきちんと早く終わるのか」をまず考える。考えてから手をつける。そうこうしているうちに、「会社の仕事というのは、すべて単純で合理的なものである」という事実に出口さん気づく。これは非常に重要な話だと思うので、以下に引用したい。

直球勝負の会社
[著]出口治明(ダイヤモンド社)

「本来会社の仕事は単純で合理的なものです。おそらく90%の人が、与えられた課題に対して、正しい解を見つけることができるはずです。ところが、現実の世界では、90%の人が正しい解から外れてしまうのです。どうしてかと言えば、仕事の目的以外のことを考慮に入れるからです。つまり、上司がこの発想は嫌いだとか、この案は前回の会議で評判が悪かったとか、ついつい余計なことを考えてしまうからです。私は、可能な限り仕事本来の目的だけを考えようと努めました。それに、どんな小さな仕事であっても、純粋にその仕事の目的だけを考えて工夫すれば、達成感があり、とても楽しいということもわかりました。この頃から、食事と同じように、仕事の好き嫌いはほとんどなくなりました」

仕事である以上、目的に従って合理的に仕事をするとか、顧客のためを思って商品をつくったり売ったりするのは当たり前。しかし、そうした当たり前のことがすんなり通らないのが世の常だ。出口さんが本書で触れている「プロクルステスの寝台」の逸話のような成り行きになる。

プロクルステスというのはギリシャ神話に出てくる強盗だ。この人は厄介な人で、旅人を自分のベッドに寝かせ、身長がベッドより長いとそれに合わせて身体の方を切落とし、短いと引っ張って無理やりに伸ばそうとする。出口さんは問いかける。「人間も会社も自分の都合に合わせて相手の都合を切ったり伸ばしたりしていないだろうか」。

プロクルステスの寝台は、戦略をつくろうとする人がハマりがちな陥穽の典型だ。知らず知らずのうちに、自分の都合に相手の都合を合わせるような方向に走ってしまう。生保業界は絵に描いたような「プロクルステスの寝台」状態にあった。ライフネット生命の戦略ストーリーは、業界に定着していた巨大なプロクルステスの寝台をぶち壊そうとするものだといえる。

最近の個人的な経験でいえば、携帯電話の販売窓口。僕は少し前に従来の携帯電話をスマートフォンに替えたのだが、あまりの不便さに(もちろんこれは個人的な好き嫌いの話)嫌気がさして、普通の携帯に戻した。元の機種に戻すだけなのに、カウンターで拘束されること1時間半(待ち時間はほとんどなかった。純粋に販売員とのやり取りにかかった時間)。こういうプランで6カ月使っているとこうなりますとか、ナントカ割引とか、延々と説明が続く。最悪なのは、「まずはこういうプランに入っていただくと、これこれの割引があります。そちらですぐに解除していただいてもかまないので……」というセールス(そんな不必要な機能ならばそもそもメニューに載せなければいいのに)。

ケータイの世界は、人知の限りを尽くして普通の人間には到底理解できないような複雑な販売システムになっている。こちらは単にスマホをガラケーに戻してほしいだけなのに、1時間半もわけのわからない契約内容を説明されて、ヘロヘロになった。もちろん説明する側もヘロヘロ。終わったときは、お互いに一仕事終えたような同志的友愛感情すら共有できた。

これこそまさにプロクルステスの寝台である。徹頭徹尾供給側の理屈。複雑化を差別化とはきちがえている。携帯電話のビジネスはまだまだ進化してく余地が大きいので、成熟産業とは言えないかもしれないが、そういう業界においてもプロクルステス化は容赦なく忍び寄る。成熟した業界であればなおさらだ。知らず知らずのうちにプロクルステスの寝台状態になっている業界が、いまの日本には少なくないだろう。当たり前のこと正攻法でやる。これが価値創造の本道になり得るのは生保業界以外にもたくさんあるはずだ。

プロクルステス化した業界や市場では、背景の暗さそれ自体が新しい戦略を潜在的に必要としている。既存企業を周到に回避するような凝った戦略を組み立てる必要はない。「直球勝負」こそが簡単明瞭にして最強の戦略になり得る。直球勝負の会社がどんどん生まれれば、日本が元気になること請け合いだ。

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