自分にはこういうこともできるのかもしれない
廣野秀幸さんは、岩手県立大船渡高等学校2年生(理系クラス)。将来は中学校の数学の先生になりたいと考えている。
「とりあえず今のところは先生です。でもアメリカ行って考えが変わったというか、自分の見てる世界が狭すぎたというのがわかったんで、国際と教育と数学をかけて、何かやってみたい。高校1年生の時に奨学金の作文で『将来の夢について書け』っていう題材で、特にやりたいこともなかったというか、わかんなかったんで、何となく『先生になりたい』って書いてたら、それが自分の理想像みたいなものになってきて。地方の教職採用は競争倍率が高いって聞いてます。東京の方が、もっと簡単らしくて。簡単って言ったら変ですけど。なんか東京のほうはモンスターペアレンツとか多くて、辞める先生多いって聞いたし」
教職志望者の親が教職という例は少なくないが、廣野さんの親御さんが教員というわけではない。
「お父さんは、大船渡の漁場市場とか、病院とかをつくっている会社に勤めてたんですけど、今は別のところで働いてます。震災で仕事がなくなったわけじゃないです。お母さんは子ども相手の読み聞かせのボランティアグループで働いています」
アップルストアのイベントで廣野さんは「人が集まりやすい空間の提示」と題したプレゼンテーションを行った。今、大船渡の学校の校庭や公園は、そのほとんどが仮設住宅に使われている。子どもの遊び場がない。それは読み聞かせを続けてきた廣野さんのお母さんの実感でもあるのだろう。廣野さんは自分が見たサンフランシスコの公園が、単なる広場ではなく、アート作品を置くことで、その町で暮らす人たちが集まり、楽しむ場になっていることに気づいた。こういう場を大船渡につくることはできないだろうかと考えた。
9月、大船渡でインタビューを始める前、廣野さんたち大船渡高校の生徒何人かは、プレハブ建ての復興商店街2階にある会議室で、まちづくりのワークショップに参加していた。
「ワークショップで自分の撮ってた写真の感性褒められたんで、写真家っていったらあれなんですけど、そういうのにも興味出てきて、やってみたいなと思いました。褒められると、嬉しいです(笑)」
自分にはこういうこともできるのかもしれない。廣野さんの「発見」は大船渡に帰ってきてからも続いている。合州国での発見も「人が集まりやすい空間」だけではなかった。廣野さんは「TOMODACHI~」のプログラムで、現地で働く日本人の数学教師に会って話を聞いている。
(次回に続く)