貴族院の大反対で予算案が廃案に

その契機となったのが、やはり自由党政権が進めた「人民予算」と呼ばれる予算案であった。当時の財務大臣デイヴィッド・ロイド=ジョージが、社会福祉政策の一環として、老齢年金を導入しようと試み、その財源に相続税や所得税を増税して充てようとしたのだ。これにより不動産への相続税は倍に近い15%に跳ね上がることになった(1909年)。

20世紀初頭、イギリスでは労働者階級みずからが政党を立ち上げ、「労働党」が結成された(1906年)。それまで労働者階級の票を自党に引きつけてきた自由党としては、ここでひるんでいてはおしまいである。そこで彼ら庶民を引き寄せる政策として、老齢年金の支給など、社会福祉政策が次々と進められることにつながったわけである。

しかしこの予算案には、保守党と貴族院が猛反発した。特に貴族院では、日頃は審議に出席することもなかったような貴族たちが次々と押し寄せてきた。そして、庶民院を通過した予算案がなんと貴族院で圧倒的多数により否決され(賛成75票、反対350票)、予算案は廃案とされてしまう。

大地主の貴族の相続税率が60%に

イギリスでは、18世紀末までに立法権における庶民院の優位が確立されて以来、国民のお金の使い方について、その国民から選挙で選ばれる庶民院を通過した法案が、選挙の洗礼をいっさい受けない貴族院で否決された前例はなかった。マスメディアはこの予算案に「人民予算」というあだ名をつけ、貴族たちがこれを阻止していると、連日新聞雑誌で彼らを批判し、ある種の「階級闘争」を煽ることとなった。

最終的には、与党自由党(庶民院で優位)と野党保守党(貴族院で優位)のあいだで、国王を媒介役として調整が図られ、翌1910年に人民予算は議会を通過することとなる。しかもこののち、100万ポンド以上の土地を有する大地主に対する相続税率は、40%(1919~30年)、50%(1930~34年)、という具合に急激に増加し、1939年には、ついに60%にまで上昇してしまうのである。