徳川家康が決めた「富士山頂の所有権」

富士山は2013年7月、日本人の「信仰の対象」として世界文化遺産に登録された。名山として、その美しい景観が認められたわけではない。

世界文化遺産に認められた「富士山信仰」と切っても切れない特別の関係にあるのがお浅間さんである。

富士山本宮浅間大社
筆者撮影
富士山本宮浅間大社

富士山本宮浅間社記によると、日本人の富士山信仰は、垂仁天皇3年(紀元27年)に富士山麓に浅間大神をまつったのが始まりとされている。

景行天皇40年(110年)にはヤマトタケルがやはり浅間大神をまつった。その後の長い歴史のなかで、源頼朝、北条泰時、武田勝頼らの武将が社殿を造営したことが記されている。

最も関係が深いのは、「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」を好むものに挙げた徳川家康である。「一富士……」は、正月の初夢に見ると縁起の良いもののたとえとされた。

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、応仁の乱のあと、長い戦乱の続いた日本の平和を願い、1604年、現在の社殿様式となる浅間造りの豪壮な社殿を寄進した。

1609年、家康は、ご神体として富士山頂上を浅間大社の支配とすることを認めた。

1779年には、徳川幕府は宗教上欠くことのできない奥宮境内地の富士山8合目以上を浅間大社所有と認め、幕府の裁許状を与えた。

これで富士山の8号目以上が正式に浅間大社の所有と認められた。

「富士山頂は誰のものか」は政治問題に発展

江戸時代には、富士登山に関係する山小屋経営などはすべて浅間大社の許可を必要とした。

明治時代に入ると、国による政教一致の政策が行われ、全国のご神体山と同様に、富士山8合目以上も浅間大社所有から国有地とされた。

戦後、政教分離の原則に基づき、国有財産の処分に関する法律が施行された。この法律で、ご神体山は神社に返還されたが、富士山は返還されなかった。

このため、1948年、浅間大社は宗教上欠くことのできない富士山8合目以上の返還を求めた。

1952年になって、ようやく富士山8合目以上を浅間大社へ返還する方向で話が進んでいた。

ところが、山梨県民らを中心に「富士山頂私有化反対同盟」などが結成され、国会周辺でむしろ旗を連ねるなどの強硬な反対運動が起こった。

政治問題に発展した結果、衆議院行政監察特別委員会は「富士山8合目以上を国有のままとして、そのための特別立法をすることが望ましい」とする意見書を当時の大蔵大臣に提出した。