キリスト教徒、イスラム教徒には考えられない日本の信仰

早くから大陸(中国)の文化を受容してそれを自家薬籠中のものにして重宝に使ってきた日本人は、外来の文化や文物に対して寛容であり、その到来物を喜んで受け入れる民族性がある。

平安時代に編纂された私撰歴史書『扶桑略記』には、仏教公伝に先立つこと16年前の522年の条に、渡来系の司馬達等が自邸に仏像を安置して日々礼拝していたという記述がある。おそらくそれよりもはるか以前に渡来人が仏教を持ち込んでいたと考えられるが、日本人は私的な信仰に関してはほとんど関心を示さず、いい意味で寛容な態度を取ったのである。

538年に百済から正式な外交ルートを通じて仏教が伝えられると、蘇我氏と物部氏の間にその受容を巡って熾烈しれつな争いが生じた。しかし、一般民衆はそんなことは意に介さず、隣の住人が仏像を礼拝し経をとなえていても違和感を感ずることもなかったものと考えられる。

横浜の外国人墓地の周辺には日本聖公会やカトリック山手教会などが建ち並び、多くの観光客で賑わっている。そして、日本人のほとんどはそれらの教会にあたかも日本の神社仏閣と同じように礼拝して手を合わせている。これは、キリスト教徒やイスラム教徒には考えられないことだろう。もし、キリスト教徒が自分の教会に行く途中にイスラム教のモスクがあったとしても、足を踏み入れることはないのである。

教会の十字架
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キリスト教と浄土宗が混在する一家

また、私の古くからの知り合いにこんな家があった。その一家は家族の集合写真を載せ、聖書の言葉を記した年賀状を毎年、送ってくる。年賀状を受け取った人たちはその一家はみなクリスチャンなのだと思っていた。しかし、近年、その家の主の母親が103歳で亡くなり、通夜、葬式に行って驚いた。

その家は近くに浄土宗の菩提ぼだい寺があり、通夜と葬式はその寺の僧侶が執り行った。目を疑ったのは荼毘だびに付した遺骨が戻ってきたときのことである。骨箱は黒のビロードの布に包まれ、正面には白い十字架が表されている。後で主に話を聞くと、一家のうちクリスチャンは母親だけで他の家族は全員浄土宗なのだという。そして、その母親も浄土宗の檀家だんかだというのだ。

そのため、後日、教会で追悼のミサを行い、その後、菩提寺の僧侶が来て四十九日の法要を営んでから、菩提寺にある先祖累代の墓に埋葬するのだという。つまり、一家の中で一人だけがクリスチャンで、日曜日には教会に通い、しかし、法要などがあると菩提寺にも行く。そういう人と家族が何十年もの間、一緒に暮らしていたのである。

世界では紛争や戦争が絶えないが、その原因の多くは宗教の違いにある。ローマ・カトリック教会は7回にわたって十字軍を遠征してイスラム教との間に熾烈な闘争を繰り広げた。