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安易に「復旧」を約束せず、未来のための投資に振り向けよ

災害大国日本において、人知の及ばぬ「天災」は避けられないとしても、避難所生活での災害関連死は防ぐことができるはずのものです。学校体育館などの1次避難所生活は、あくまで仮のもの。家が崩れ、インフラが破壊された直後は、雨露凌げる場所の確保が必要ですが、次のステップではより安定した生活、温かい食事や十分な医療サービスを求めて、「1.5次避難所」や、ホテルなど宿泊施設を利用した「2次避難所」への移動が望ましい。避難所レベルは徐々に上がっていかなくてはならないのです。ところが2月1日現在、自治体が用意した約3万人分の「2次避難所」の利用者は4789。災害関連死者数は15人に達しています。

2次避難所への移動が進まない原因の一つには、政府の曖昧姿勢が挙げられます。「お願い」ベースの移動提案では人々の命を守れないのです。

新型コロナのパンデミックの際も、欧米諸国がロックダウンなど法に基づく強制措置に踏み切る中、日本は国民に対しても、飲食店や医療機関に対しても「お願い」の姿勢しか取れませんでした。一見民主的で国民の自主性に寄り添った穏健な対処です。でも、その結果、医療の逼迫が起き、救える命が救えない事態も招きました。

国民の自主性に任せる「お願い」は、実は「自己責任」と紙一重です。「強制」と「責任」はワンセットですが、政府の「お願い」には政府の「責任」が伴わないからです。

実際、厳しい行動制限や営業停止を徹底した欧米諸国は、違反者には罰金措置を取りつつも、国民や事業者に対しては相当額の生活費や補償金を出し、人々の生活安定を確保しました。一方、「お願い」ベースだった日本では当初、例えば飲食店への休業要請に対し補償措置はありませんでした。「時短営業協力金」という名の補償が始まるのは、新型コロナの蔓延が始まってから1年近く後の21年1月のこと。僕自身はよく「冷たい自己責任論者」と呼ばれますが(笑)、僕の自己責任は強固なセーフティーネットとワンセットです。他方、一見優しい「お願い」に見える政府の曖昧な態度こそが、冷たい社会をつくり出してはいないでしょうか。

人が様々な選択肢から自らに合った道を選べるのは、最低限の健康や金銭的余裕があったうえでのこと。家族や自宅を失い、心身ともにショックを受けている人々に、選択肢を比較検討し、自ら行動に移すよう促しても、全員ができるわけではありません。そこは政府が強力な指導力を持ち、ある程度オートマチックに、「あなたはこちらに行ってください」と差配することで、傷ついた人々を安全な環境下でケアすることは可能なはずなのです。そしてそのように政府が差配するからこそ、政府に責任が生じるのです。

がれきの街に立つ女性
写真=iStock.com/PhotoTalk
※写真はイメージです

日本は第2次世界大戦下の軍部独善の教訓から、戦後徹底した民主主義国家に舵を切りました。政治・行政に強制力を持たせてはならない、国民に何かするときには必ず「国民の同意が必要」という原則を前提にしてやってきた。しかし、有事の際まで「国民の同意」を貫けば、政府は必要な方策が全くとれません。時には非難の声や反対意見があっても、真に国民の生命を守るために必要なことは、政治家自らが責任を持つ覚悟で実行する。そんな覚悟とリーダーシップが、政治家には求められます。そして、日本は法治国家である以上、このような有事の際に政治家や政府が強制力を発揮するためのルールを策定するルールメーカーとしての役割が、政治家にはあるのです。

しかしいまの政治家たちを見るに、次々と明らかになる裏金問題からは、彼らにルールメーカーたる自覚も覚悟も見えません。自らは数百万円から数千万円、あるいは億円単位で領収書も申告も納税も不要の金を手にしながら、報告書不記載や裏金づくりを実行したのは会計責任者であると責任逃れ。ルールを作るどころか、国民に義務づけられた最低限の納税ルールすら守れない人たちが国会議員には多すぎる。

もう一つ、政治家には「未来社会の絵図を描く」使命があります。その意味では、被災地の人々に「2次避難所に避難してください。時が来れば元の街に戻しますよ」と安易に約束することも、僕は無責任だと思っています。

今回の被災地は地震が起きる前から、少子高齢化、人口減少、過疎化が大きな課題になっていた土地です。「原状復帰」に加えて真に災害に強い街づくりが本当にできるのか、被災者の皆さんが、復興した街にとどまることが、皆さんの幸せに本当につながるのかよくよく考える必要があります。

東日本大震災後、巨費を投じて防潮堤を造り、土地をかさ上げして、街を再建した土地に、どれほどの人々が戻り再び生活を始めたか。