ドラマには「自分を許してほしいおじさん」の甘えが見える
SNSで見ているとドラマ「ふてほど」は、アラウンド50の世代やお笑い好きからは評価を得ている。テンポはよく、キャストもさすがの芸達者揃い、小ネタも満載だ。例えば大河ドラマ出演中のロバート秋山に、烏帽子と直垂で登場させたのも気が利いていた。
その一方、90年代生まれ以降の若い層には「ちげーよ」「モヤる」というような違和感を抱かれているようだ。公式サイトに「意識低い系コメディ」「不適切発言が令和の停滞した空気をかき回す!」とあるように、「やっぱ、意識高い(笑)って息苦しいでしょ?」とでもいいたげな、テレビ局の上から目線が透けて見えるからではないか。
主人公・市郎のふるまいには「変われない自分を許してほしいおじさん」の甘えが凝縮されているし、令和6年から昭和にタイムスリップした14歳のキヨシが「昭和がいいんだ! 地上波でおっぱいが見たいんだ!」と叫ぶのも不自然だ。中高年の郷愁と欲望を、今を生きる中学生に代弁させるのは卑怯だろう。
吉田羊演じる「不適切です!」と言う役回りの女性もブレた
吉田羊が演じるヒステリックなフェミニスト社会学者・サカエというキャラ造形もステレオタイプだ。ミュージカル中、彼女は主人公の娘に「お父さんをガッカリさせないで」と歌う。だが父が「娘が悲しむことはしない」のと、子が親を「ガッカリさせない」のは別次元の話だ。親が子に加害しないのは、いい子でいることのご褒美ではない。ここでは対称性のないものが対句表現になっている。
サカエは令和からやってきて、昭和の中学校に「パワハラ!」「虐待!」と乗り込むような「不適切」を指摘する役割をドラマ内で担っている。その彼女が「娘が父の従属物」であるかのような価値観に基づく「不適切」なセリフを歌うのは、設定のブレなのか、作り手の確信犯的メッセージなのか。
主人公と仲里依紗のロマンスもかなり唐突だ。彼女が市郎に惹かれていく理由がよくわからず、ご都合主義のおじさん版少女漫画のような印象がある。「最近、話題になっていた、恋愛エピソードが無理やり挿入されるという例のアレ?」と邪推してしまう。
人権、対話、多様性。こういった新しいあたりまえを「はいはい、コンプラね」「またポリコレか」と内心小馬鹿にしながら時代に置いていかれるのか、それとも意識をアップデートさせていくのか。「娘にしないことはしない」程度のガイドラインのままでは、「ちげーよ」「モヤる」と思われながら肩身狭く生きていくことになりそうだ。
※参照:新版 教職員ワークショップ冊子