胸を張って世界に発信した人
前出の経営者たちに比べれば、ソニー元会長の盛田昭夫さんはオーソドックスでグローバル感覚に富んだ経済人だった。
戦後になって登場した最初の世代の経営者でまともに英語が話せる人は、私が知る限りほとんどいない。盛田さんくらいのものである。
といってもピカピカの英語ではない。戦後間もない頃から、アメリカを開拓するために自ら海を渡り、数多くの交渉をこなして叩き上げてきた盛田流ブロークンである。しかし、話に内容がある上に愛嬌たっぷりだから、皆、耳を傾ける。結果を出す“英語力”は見事という他なかった。
私がコンサルタントとして一番元気だった頃、月に2回はアメリカに行った。マッキンゼーの役員会もあったし、日本のクライアントを伴って渡米することも多かった。マーケティングや拠点づくりのためにアメリカ中を回って、全米50州のうち49州に足を踏み入れた。
生涯で400回くらいは渡米しただろうか。20年間毎年20回ずつ行く計算だが、やはり盛田さんも400回ぐらいアメリカに行ったそうである。実際、同じ飛行機に乗り合わせることがよくあった。
ソニーの世界化という仕事上の関係もあったが、盛田さんとはよく国際会議などで顔を合わせた。当時、そうした場所に出てくる日本人の顔ぶれは大体決まっていて、経済人では盛田さんや服部一郎(セイコーエプソン元社長)さん、小林陽太郎(富士ゼロックス元会長)さん、小笠原敏晶(ニフコ会長)さんとはよく海外の会議などで顔を合わせた。
折しも日米貿易戦争の真っただ中で、盛田さんとはよく日本代表として一緒に座を持った。アメリカの経済人や学者相手に、盛田さんは口角泡を飛ばして日本の立場、日本企業の立場、日本的経営の素晴らしさを説いた。決して上手ではない英語だが、相手が「なるほど」というまで説明を止めない。一緒に論陣を張って心強かったし、盛田さんも私を頼りにしてくれた。
盛田さんの頭の中には常に「国益」の意識があって、日本の全盛期における素晴らしいスポークスマンだった。今時、あれだけ胸を張って世界に向かって発信できる日本人は政治家にも役人にも、ましてや、しおれっぱなしの財界にもいない。