倒れる直前まで全力で走り

盛田さんとは遊んだ思い出もたくさんある。スキー、テニス、麻雀、何でもござれ。好奇心の塊で、彼が67歳のときに週刊朝日で対談したら、「大前さん、僕は70歳になったらスキューバダイビングをやりたい」という。

「ゴルフ場の風呂に行くと、同世代のお尻がデレッと垂れている。あれは許し難い」ということで、シェイプアップを目指して盛田さんは60歳でスキーを初めて、65歳でウィンドサーフィンを始めた(これはモトローラ会長ロバート・ガルビンさんの(湖がある)邸宅で習い始めたものだと言っていた)。

週刊誌が出たら日本全国のダイビングショップから「ウチでライセンスを取ってください」という要望が殺到、盛田さんも逃げられなくなって、とうとう沖縄でダイビングの免許を取得した。

「すぐに行こう!」という話になって、沖縄の万座ビーチホテルに集まった。一日目は万座の前の水深の浅い海で潜った。初めてのダイビングだというのに、盛田さんはマビカ(ソニー初のデジタルカメラのブランド)をハウジング(水中撮影用の防水ケース)して、一所懸命水中写真を撮っていた。

二日目は慶良間諸島まで足を延ばして座間味でボートダイビング。季節によってはマンタ(イトマキエイ)が回遊してくるテーブル珊瑚のきれいなポイントである。

「ねぇねぇねぇ! 感じた? 無重力。これって宇宙遊泳と同じだよね」

盛田さんは目を輝かせて、ベテランダイバーの私にも身振り手振りで自分が感じた世界を伝えようとする。

結局、70歳を待たず、67歳にしてダイビングデビューを果たした。

付き合いがいいというか、生来、さびしがり屋なのだろう。盛田さんは人を呼んで騒ぐのが大好きだった。たとえばダイビングの前に万座ビーチホテルの個室で一緒に朝食を取っていると、座席を数えて、「5席余るから、晩飯には琉球銀行の○○さんたちを呼ぼうか」

こっちは潜りにきているのだから余計な人に会いたくない。しかし盛田さんは沖縄の財界人を5人も呼び出してご満悦である。

ニューヨークでも自宅に天ぷらセットが置いてあって、仲良しのデイビッド・ロックフェラーなど友人を招いて、よく天ぷらパーティを開いていた。

周囲にひと気がないと気が済まない。秘書に「来年の今日のスケジュールはどうなっている?」と聞いて、空いていると「俺の人気もなくなったか」と肩を落とす。そんな人だった。

しかし、多忙なスケジュールが仇になる。1993年11月30日、盛田さんは都内のホテルでテニスをしている最中に脳内出血で倒れてしまう。この日、当時の経団連会長、平岩外四(東京電力元会長)さんの訪問を受けて、次期経団連会長の就任を打診される予定になっていた。

聞けば、盛田さんはアメリカにいたのにイギリスのブリッジエンドにあるソニーの工場で行われた記念式典に参加してとんぼ返りでアメリカに戻り、その後すぐに日本に帰っている。休む間もなく沖縄で友人の娘の結婚式に出席、翌日に自家用ジェットで四国高松に飛び、そこからクルマで淡路島の三洋電機の菩提寺を訪れている。そこからヘリコプターで大阪に入って、電器会社の会長さんと会食した後そのまま自家用機で東京に戻っている。問題は、次の日の朝7時には品川プリンスホテルでテニスをやっていることだ。とても72歳のスケジュールではない。まさにこのテニスの最中に倒れる直前まで全力で走り続けていたのである。

病床についた盛田さんは新しい世紀を目にすることなく1999年に亡くなった。同年、米タイム誌の「20世紀のもっとも影響力ある100人」という特集の中で「20人の経営者」に日本人で唯一、盛田さんが選ばれた。

私はその解説記事をタイム誌から依頼され、ソニーの秘書室の協力を得て「アキオ・モリタの一生」という弔いの文章を書かせてもらった。

次回は《大前版「名経営者秘録」(7)——郭台銘と張忠謀》。11月26日更新予定。

(小川 剛=インタビュー・構成)