執着を捨てたら病気が奇跡的に治った
それともうひとつ。「人生はどうにかなる」とはよく言いますが、正しくは、「人生はどうにか“しか”ならない」ではないでしょうか。
人生とはそのような程度のものであり、執着をせずに、諦めをつけ、「さあ、次に行ってみよう」と思うくらいでよいのです。
衆議院議員秘書時代の後輩に、血液の難病を患い、26歳で余命宣告を受けた男性がいます。大手術をしなければまず命はないし、その大手術が成功したところで、命の保証もない。元々、適当な性格の男だったのですが、そればかりは絶望の淵に立たされた気持ちだったはずです。
しかし、セカンドオピニオンで訪れた医師が非常に考えの柔軟な人だった。その医師は、「この数値を10万上げたら標準値になるけども、2万上げるだけでも生きていくことは全然できる。10万上げるには骨髄移植をして、生死を懸けなければいけないけれど、そんなことする必要ない」と言うのです。
そして、飲み薬を服用するだけの治療をしたら、なんと1週間で数値が10万上がってしまった。その医師もまた、「上の言うことは一切聞かないし、突然1カ月イタリアに旅行に行ってしまう」というような適当な性格だったのですが、そんな人の一言で、余命宣告を受けた男があっという間に完治したのです。
もう死ぬことを覚悟していたくらいなので、その後輩にとって26歳以降の人生は、おまけでしかありません。彼は、秘書の仕事は辞めて、「残りの人生おまけ~」なんて言いながら、雑誌編集者に転職しました。
八つのジョッキを一旦置いてみよう
余命宣告でも受けない限り、ここまで開き直ることは難しいかもしれませんが、そのくらい執着を捨ててみてもいいのではないでしょうか。
「念」を「残す」と書いて、「残念」と言います。そんな、残念だなんて思わないこと。情念を残さないこと。念を手放さないことには、手にできないものもあるのです。
ビアガーデンに行くと、店員のお兄さんが七つも八つもジョッキを持って歩き回っています。あと二つ、ジョッキを持つことができれば、一往復分省くことができるけど、持てないものは持てません。
とりあえず、八つのジョッキを一旦置きましょう。そうすれば、二つのジョッキだけでなく、何枚かお皿を持つことだってできる。簡単なことです。