有名OBでも躊躇なく解雇する
1995年、史上2人目の日本人メジャーリーガー、野茂英雄を誕生させた時のドジャースのオーナーは、ピーター・オマリー氏だ。
オマリー氏は1970年から98年の球団売却まで29年間にわたり経営のトップを務めた。家庭的な温かみのある経営姿勢は「ドジャー・ウェイ」と呼ばれ、経済誌フォーチュンによる「働きやすい会社ベスト100」で3度、トップス社が発表する年間最優秀団体に5度選出されている。
温厚で物腰の柔らかい人柄でチームの繁栄を支えてきたピーター・オマリー氏。誰もが紳士と語るその彼に怒気が突き上げたのは87年のことだった。腹心のアル・カンパニスGMが起こした「舌禍事件」である。
4月6日、それはヒューストンで行われたアストロズとの開幕戦直後に起きた。カンパニスGMは全国ネット局ABCの報道番組「Nightline」に出演。
キャスターの「メジャー球団にはなぜ黒人GMがいないのか」の問いかけに、「必要なものを持ち合わせていないから」と返答。しかし、会話の文脈の中でそれが「能力」と受け取られ、発言の直後から局には抗議の電話が鳴り響いた。非難の声は決河の勢いでドジャースにも押し寄せ、辣腕GMは、放送からわずか2日後に辞任という事実上の解雇となった。
それから10年後の97年だった。記憶に残る光景がある。
ドジャースタジアムのメディア専用カフェで、仕事で行動をともにしていた伊東一雄氏(02年他界)が食事の手を止めた。視線の先には車椅子に座り手をふる老人がいた。カンパニス氏だった。「パンチョ」の愛称で親しまれたメジャーリーグ解説の第一人者は大粒の涙を流した。「来日したとき、いっしょに旅行をしたんだよ」。くぐもった声は今も耳に残る。
日本シリーズ不滅の9連覇を達成した川上・巨人軍が教科書とした名著『ドジャースの戦法』を上梓し、81年の世界一制覇を含め4度のワールドシリーズ進出を果たした名GMは、黒人初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンとマイナー時代に二遊間を組み昵懇の仲となったが、皮肉にも人種差別的な失言で球界を追われた。
ドジャースの球団としての姿勢
ドジャースは1883年、ニューヨークのブルックリン・ドジャースとして発足。ライバルのヤンキースと地元ファンを二分していたが、新球場建設を巡る土地問題で市当局と対立。
1958年に決然として現在のロサンゼルスに本拠地を移した。1950年からオーナーとなったオマリー家は大資本を入れず、伝統的な一族経営による野球専業球団として新天地で躍進。利潤追求に偏らず、地域社会への貢献を目指した。
「経営は実利や実益に直結すべし」とするオーナーが多くいた中で、ドジャースにはブルックリン時代から育んできた理念「正しいやりかた」を守り抜くプライドがある。辣腕GMアル・カンパニスの電撃解任劇はそれを物語っている。