股関節の骨が壊死する「ペルテス病」で動き回れぬ幼少期

静岡県出身の吉田は5歳頃に股関節の骨が壊死する「ペルテス病」を発症。一時は装具をつけることが多く、「動きたくても動けない状態だったんです。みんなは走り回ったりしているのに、自分はできなくて……」という幼少期を過ごした。

完治した後も、体力面では他の児童よりも劣っていたという。それでも小学生の持久走大会は、「40人中10番を切るぐらい」だった。そのときに「長い距離を走るのは楽しいな」と感じて、中学で陸上部に入部した。

校庭をきれいなフォームで走る小学生
写真=iStock.com/TATSUSHI TAKADA
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「最初はめちゃめちゃ遅かったんですけど、顧問の先生に面倒を見てもらって、活躍することができたんです」

急成長を果たし、3年時にジュニアオリンピックA3000mで7位に入るなど、吉田はいつしか全国レベルの選手に。そして高校は駅伝強化を開始した東海大翔洋に進学する。

高校では5000mの「インターハイ入賞」を目指して取り組んだが、目標の舞台に上がることはできなかった。3年時はコロナ禍でインターハイが中止。代替大会となった全国高校陸上2020は故障のために欠場したからだ。

「本来なら走っているはずなので、本当に悔しかったですね。高校時代を振り返ると、ひとりで練習する機会が多かったのですが、かえってそれが大学のレースに生きたのかなと思います。単独走で実力を出せない選手は少なくないですけど、自分は逆に自信がある。悪いコンディションでも実力を発揮できるのが自分の持ち味だと思っています」

駅伝に関しては2、3年時の出場はない。チーム事情から短距離ブロックに所属して、ひとりで長距離の練習をしていたからだ。そして東海大に入学すると、ほどなくして箱根駅伝の“秘密兵器”としての育成が始まった。

「自分はピッチ走法なので、足の回しが速いんです。それが山だと有利なんじゃないかということで、僕のレベルに合うメニューを組んでいただきました。東海大はスピード練習を重視しているんですけど、自分はそういうタイプじゃない。50mとかも中学生に負けちゃうぐらいなので、持久力を伸ばすことを意識しました。入学直後の4月の10000m後はレースに一度も出ず、箱根駅伝に合わせてきたんです」

1月2日、無名のルーキーは東海大の5区走者として箱根路に登場。17位でタスキを受け取ると、順位を上げていく。芦ノ湖のゴールに10位で飛び込んだ。

「すぐに故障してしまう」という吉田は2年時もマイペースで練習を続けながら、箱根駅伝の予選会でチームに大きく貢献した。

しかし、2度目の5区はブルーのユニフォームで出場することはなかった。「山の神」候補を欠いた東海大は15位と惨敗。その後、現在の3年生世代が1年前の13人から7人に減少するなど、チームは大きく揺れた。そして吉田も東海大の陸上競技部を去ることになったのだ。