3位は戦国随一の「くせもの」武将
第3位には真田昌幸(佐藤浩市)を挙げたい。NHKのホームページには、登場人物の紹介で「小国ながらも徳川はじめ列強を手玉に取り、生き残りを図る反骨不屈の男」と書かれている。ひと言でいえば「くせもの」ということだろう。
今回の大河で脚本家は、人物像を単純明快に設定しすぎるきらいがあったが、「くせもの」とはそもそも複雑な人物である。したがって、佐藤浩市に求められたのは、複雑であることを明快に演じるという逆説だったが、よく応えていたと思う。
たとえば、第35回「欲望の怪物」。秀吉の命で家康に帰属することになった昌幸は、駿府城の家康を訪ねた。そのとき、北条の領地である上野(群馬県)で飛び地のように真田が治めている沼田領を、北条に渡すように求められた。沼田領を渡すのは、徳川が北条に約束したことで、そうしないと沼田領が火種になる危険性があったのだ。
しかし、昌幸は広間にある壺を「見事な壺でございますな」とほめ、脇に控える嫡男の信幸(吉村界人)に「この壺をそなたにやろう」といった。その言動を非難されると、昌幸はこういい切った。
「ご存じであったか、他人のものを他人にやることができないことを。沼田はわれらが切り取ったもの。徳川殿が北条にやることはできませぬ」。史実における昌幸の行動を、言葉で的確に表していた。
その後、家康の嫡男の秀忠が率いる徳川軍の主力を、居城である信濃(長野県)の上田城(上田市)で翻弄し、関ヶ原合戦に遅参させたくせもの、昌幸。それがくせものらしい奥行きをもって描かれた。
真っすぐで融通が利かない三成
第2位は石田三成(中村七之助)である。理想に燃えながら、真っすぐすぎて融通が利かず、周囲の反発を買っていくところに、三成はこうだったに違いない、と思わされる説得力があった。
慶長4年(1599)閏三月、前田利家が没した翌日、三成は加藤清正や浅野幸長ら豊臣系の7武将に襲撃された。原因は朝鮮の役にあった。蔚山籠城戦で清正や幸長らは明と朝鮮の連合軍に攻められ、凄惨な飢餓地獄を経験した。援軍を得て九死に一生を得たものの、これ以上の戦闘は無理だと悟った武将たちは、自分たちで戦線縮小の方針を決めた。
ところが、現地目付で三成の義弟の福原長堯が、それを三成に報告、三成が秀吉に上奏したため、秀吉は激怒して武将たちは処分を食らった。だから彼らは三成を亡き者にしようとしたのだが、三成は、自分は秀吉の命に忠実なだけで、まちがったことをしたとは思わなかったのではないだろうか。
この襲撃事件は家康が仲裁し、三成は居城の佐和山(滋賀県彦根市)で隠居することになった。ドラマでは、三成は佐和山に退く際、「私はまちがったことはしておりませぬ。殿下(秀吉)のご遺命にだれよりも忠実であったと自負しております」と、自身の正当性を力強く訴えた。いかにも三成らしい。
種々の史料からも、三成は「ご遺命にだれよりも忠実であった」と思われる。だが、秀吉の存命中は武将たちも、秀吉の意を受けた三成に従ったが、秀吉の死後は違う。秀吉恩顧の大名たちは、いくら三成が豊臣の正義を強調しても、三成を倒してこそ豊臣家のためにもなる、と思ったことだろう。関ヶ原合戦で家康が総大将を務めた東軍が勝利できた根本的な原因もそこにある。
真っすぐで融通が利かない、という設定と、中村七之助の真っすぐな演技がうまくハマっていた。