親子なのに体形が全く違う秀吉と秀頼

まず5位だが、4位との差をつけるのが困難なので、2人を同点で4位としたい。豊臣秀頼(作間龍斗)と大野治長(玉山鉄二)である。

秀頼について『明良洪範』には、身長6尺5寸(197センチ)で体重43貫(161キロ)の「大兵」(大男)だったと書かれている。ただし、これは江戸中期に成立した逸話集で一次史料ではなく、数字を鵜呑みにはできないが、大男ではあったのだろう。演じた作間龍斗は身長180センチで、テレビではさらに大柄に見え、視覚的にも説得力があった。

一方、父親の秀吉は残された衣類などから、身長は150センチ前後だったと考えられている。イエズス会宣教師のルイス・フロイスも著書『日本史』に、秀吉の身長が低かった旨を記している。

また、フロイスは秀吉のことで、秀頼の前に茶々が生み早世した鶴松に関してだが、こうも書いている。「彼には唯一人の息子(鶴松)がいるだけであったが、多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供をつくる体質を欠いているから、その息子は彼の子供ではない、とひそかに信じていた」(松田毅一・川崎桃太訳)。

鶴松が生まれたのは天正17年(1589)5月で、大坂夏の陣の26年前になる。そのころから多くの人が、秀吉が「子どもをつくる体質を欠いている」と信じでいたなら、人々は小男の後継ぎである大男を見て、その思いをさらに強くしたのではないだろうか。

だが、ポルトガル人のフロイスがポルトガル語で書き遺すことはできても、日本人が言える状況ではなかっただろう。このあたりが「どうする家康」では、うまく描かれていた。

すなわち、視覚的には親と似ても似つかない嫡男を目にしながら、だれもが疑問をおくびにも出さない。ドラマのなかで「じつは父親が違うのではないか」などと臭わせたりしない。それが当時の空気を、よく映しているように感じられた。

秀頼の父親は誰なのか

では、秀頼はだれの子だったのか。じつは、昭和55年(1980)に豊臣大坂城の三の丸跡から、20代男性の頭蓋骨が見つかった。顎に介錯のときについたとみられる傷があり、骨の状況や埋葬の仕方などから、秀頼ではないかと推測されている。

この骨と秀吉の遺骨をDNA鑑定すれば、少なくとも両者が親子だったかはわかるのだろうが、そこは歴史の謎のままにしておいてもいいのかもしれない。

当時、秀頼の父親ではないかと噂されたのは、永禄12年(1569)ごろの生まれで、茶々とほぼ同い年の大野治長だった。実際、治長が茶々と密通していたという話は、複数の書物に記されており、秀頼の身長と体重を記した『明良洪範』にも、秀頼が治長の子である旨が書かれているが、さすがにこれは噂の域を出ない話だろう。

「大坂夏の陣図屏風」より大野治長像(画像=大阪城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
「大坂夏の陣図屏風」より大野治長像(画像=大阪城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

ただ、治長は長身で色白の美男だったと伝わり、身体的特徴が秀頼と似ていたため、余計に噂が広がったと考えられる。もっとも、表立ってはだれもそんなことを口外しなかっただろう。

「どうする家康」でも、この2人はともに身長が高く、見た目も雰囲気もよく似ていた。しかし、あえて父子ではないかと臭わせるような野暮は避けられた。こうした描き方は洒落ている。