今月2日、北海道南部の大千軒岳(福島町、標高1072メートル)を登山中だった北海道大学の学生が、ヒグマに襲われて死亡した。道内でのクマによる人身被害を振り返ると、明治から大正にかけての開拓時代に重大な被害が多発している。なかでも1915(大正4)年に起こった「三毛別さんけべつヒグマ事件」は、死者7人を出した日本史上最悪の獣害事件だ。さらに23(大正12)年の「石狩沼田幌新事件」では3人が亡くなった。悲劇が繰り返された理由を、専門家は「ある意味、人災だった」と指摘する。

「石狩沼田幌新事件」が起こった沼田町・炭鉱資料館に展示されている、牛を襲ったヒグマのはく製
「石狩沼田幌新事件」が起こった沼田町・炭鉱資料館に展示されている、牛を襲ったヒグマのはく製=沼田町提供

「三毛別ヒグマ事件」は、作家・吉村昭のドキュメンタリー小説「羆嵐」やテレビドラマ、マンガなどで紹介され、広く知られるようになった事件だ。

事件が発生したのは道北の天塩地方、日本海沿岸の苫前村(現・苫前町)。

この地域は大正中期まで、ほぼ全域がヒグマの生息地。クマに襲われた2軒の開拓農家は、三毛別川の河口から20キロほどさかのぼった、そんな山間部で暮らしていた。

第一の事件は12月9日の昼前に起こった。突然、沢の近くにあった家屋(太田家)に巨大なクマが侵入。在宅中の妻と男子を襲って殺した後、妻の遺体を運び去った。

翌日、捜索隊は130メートルほど離れた地点で、ササなどを被せた遺体と、その近くにいたクマを見つけた。遺体のほとんどは食べ尽くされ、頭と四肢下部を残しているにすぎなかった。クマは捜索隊に向かってきたが、鉄砲などで反撃されると立ち去った。

取り戻された遺体は太田家に安置されたが、その夜にあった通夜の最中、クマが再び襲ってきたのだった。

なぜ、クマは攻撃を繰り返したのか?

「ヒグマは捕獲した獲物に対して強く執着します。遺体にササをかぶせるのは『自分の食べ物だ』という印です。クマはそれを取り戻そうとしたわけです」

長年、ヒグマの生態を調査してきた北海道野生動物研究所の門崎允昭まさあき所長は、こう説明する。

クマは棺桶をひっくり返したが、空砲を撃つなどしたところ、外へ逃げた。

ところがその直後、第二の悲劇が起きた。逃げたクマは森に帰らず、太田家の北500メートルほどのところにあった明景みよけい家に侵入したのだ。

この家には妻子6人のほか、同宅に避難していた4人、計10人がいた。ヒグマは1時間近く人を襲い続け、妊婦の腹から引き出された胎児を含めて5人が亡くなった。遺体のほとんどに食害が見られた。

14日、十数人の猟師による狩りが行われ、クマは太田家の北2キロほどの地点で射殺された。

門崎さんはこのクマについて、冬眠直前だったと見る。

「ただ、当時の新聞記事を読むと、痩せていたという記述はありません。ですから、特に食べ物に困っていた、という状況ではなかったでしょう。それでもヒグマは人を襲って食べる猛獣だということです」