もし、毛利隊が約束通り東軍に襲い掛かっていたら、戦況はさらに西軍優位に傾き、結果、日和見ひよりみをしていた小早川もまた、家康との約束を反故にして東軍に襲い掛かり、西軍の大勝利となっていただろう、そう主張する歴史マニアはいまでも多い。そこまで単純な構図ではないと私は思うが、勝敗の帰趨はまったくわからなくなっただろう。

なぜ、毛利軍は動かなかったのか。西軍総大将にして最大の軍勢はなぜ、まったく戦うことなく早々と戦場を離脱したのだろうか。

戦後、毛利に対し家康から厳しい処断が下され、戦場を指揮した秀元には“宰相殿の空弁当”なる不名誉な逸話が残された。その背景にはいったい何があったのか、その謎を私なりに追いかけたのが、前著『尚、赫々かくかくたれ 立花宗茂残照』だった。

毛利秀元と古田織部の関係性

今回、新たに刊行した『遊びをせんとや 古田織部断簡記』(早川書房)は、この毛利秀元を主人公にして、あの古田織部の死の謎に迫ろうとする歴史小説である。

古田織部は、千利休が豊臣秀吉に切腹させられて後、その跡を受けて天下一の茶匠となった大名茶人である。漫画『へうげもの』で知る人は多いだろうが、実はこの人、いまの日本に大きな影響を残している。

世界に誇る「和食」は茶の湯の懐石膳から発展していったもので、その魅力のひとつ、料理を盛りつける美しい器の数々を茶席に持ち込んだのは、この織部であると言って差支えない。利休によって大きく花開いた「侘茶」の世界は、江戸時代に入ると、武家の世に相応しい華やかな茶の湯へと変化していった。

黒い背景に蒸気の上がる茶2杯
写真=iStock.com/Na Zarr
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それを先導したのが二代将軍秀忠の指南役となった織部であった。伊達政宗、島津家久といった外様の大物の他、土井利勝や永井尚政といった幕閣中枢からも指南を請われ、それら数多い織部の信奉者の中でも、毛利秀元はその茶風を強く慕っていたと言われている。

織部の茶人としての歩み、茶の湯の世界で果たした役割について、資料を基に丁寧に綴ったつもりだ。

徳川家康の本当の人物像が見えてくる

その織部が大坂の夏の陣を前に閉門を申しつけられ、戦いが終わった直後、家康の命により切腹させられた。

冬の陣では幕府方として出陣していた織部がなぜ、死を宣告されたのか。

しばらくして流布した大坂方への内通説などまったく信じなかった秀元は、十数年を経た寛永期、あることをきっかけに真相究明に乗り出した。その過程で次々と大物の名が明らかとなり、やがて、大御所家康の天下の大計で見えてくるのだった――。この謎解きの過程をまずは読んで欲しいと思う。

家康とは一体どういう人物であったのか、多くを語ることのなかった天下人は何を考えていたのか、織部の死とのかかわりで、それを明らかにするのが本作の狙いのひとつだった。家康という、信長や秀吉とはまったく異なる性格をもった人間が、今日まで続く日本社会の風土を形作ったといえる。そのことを小説を通じて考えてみたいと思った。