つまらない企画書やイベントに欠けているもの

編集というしくみは、人々が関心をもつであろう情報のかたまり(情報クラスター)を、どのように表面から奥にむかって特徴づけていくかというお膳立てだったのである。ラグビーの試合とか、グルメ情報とか、宇宙開闢かいびゃくのビッグバンとかの「情報の箱」に近づく人々に、次々に奥にある情報の特徴を提供していく作業、それが編集というものなのである。

こうしてみると、編集とは「該当する対象の情報の特徴を読みとき、それを新たな意匠で変化させ、再生するものだ」ということが、とりあえずわかってくる。ユーザーにとってはその最初の手順が、まずタイトルとして、次にヘッドラインとして、目にとびこんでくるわけなのだ。目にとびこんでこないようなら、スポーツ紙が得意にしているように、タイトルやヘッドラインをバカでかくしたり、語呂あわせをつかったりして、目をひくようにする。

このようなことは、新聞や雑誌やテレビなどのメディアの世界ばかりで試みられていることではない。小説や漫画やテレビドラマはもちろん、企画書や営業報告書や、またイベントや都市計画や政策にもあてはまる。いやむしろ、こうした領域にこそ編集の技法はどんどんいかされてきた。誰も見向きもしない報告書や提案書があるとしたら、そこに欠けているのは〈編集力〉なのだ。

営業部長や料理人も〈編集力〉を身につけている

〈編集力〉は記者や編集者やテレビ・ディレクターだけが身につけている能力をさしているのではない。映画監督もラグビーのキャプテンも、営業部長も技術開発部長も、また、料理人も子育て中のお母さんも、身につけている能力である。

京都花背はなせの美山荘の中東吉次さんは、瓢亭ひょうていの高橋英一さんらとともに京都の料理をリードしつづけた名人である(残念ながら先年亡くなった)。その中東さんは私との対談で「料理は編集なんです」と言っていた。平井雷太君の主宰する「すくーるらくだ」で地域の子どもたちの勉強を見ているお母さんたちの、何人もの人たちが「子育てとは編集することです」と言っていた。〈編集力〉はいろいろなところに潜在する。

料理人やお母さんはヘッドラインをつけたりしているわけではないし、映像を切りきざんだりしているわけでもない。けれども、それに似たこと、もしくはそれ以上のことをしている。