大河ドラマの主人公にもなった真田幸村こと信繁は、豊臣側につき大坂の陣で武将としての才覚を発揮。「日本一の兵(つわもの)」と称えられた。歴史研究家の濱田浩一郎さんは「信繁は最終決戦の夏の陣で、豊臣秀頼の出馬を望んだという。秀頼が出張って豊臣勢が一丸となれば、家康を討ち取れたかもしれない」という――。
真田信繁/真田幸村肖像画(写真=上田市立博物館所蔵品/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
真田信繁/真田幸村肖像画(写真=上田市立博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

大坂の陣で家康を苦しめた真田信繁(幸村)の生い立ち

戦国武将・真田信繁(幸村)は、大坂夏の陣(1615年)において、敵である徳川方の本陣に迫り、徳川家康を一時、危機に陥れたことで有名です。信繁とはどのような武将だったのでしょうか。そして、なぜ豊臣方に付いて、徳川家康と対決することになったのでしょうか。

まず、信繁が生まれたのは、永禄10年(1567)のこととされます。永禄10年というと、松永久秀と三好三人衆との紛争により、東大寺大仏殿が焼失した年であります。また、甲斐国の武田信玄の嫡男・義信が病死した年でもありました。翌年(1568年)は、織田信長が足利義昭を擁し上洛を開始、義昭を室町幕府15代将軍に就けることに成功した年です。いまだ戦国乱世の帰趨きすうは定まり難く、混沌としていた永禄10年。信繁は、甲斐の武田家に仕える真田昌幸の次男として生を受けます。母は山手殿。昌幸と山手殿の間には、永禄9年(1566)には、長男・信幸が誕生しています。

真田親子は、自らの家を生き残らせるために、苦渋の決断をすることになりますが、それが、関ヶ原合戦(1600年)前の「犬伏の別れ」です。家康は会津の上杉景勝打倒のため、同年6月16日、大坂を出陣。ところがその隙を突くように、家康に敵対する石田三成方(西軍)が家康を弾劾する書状を諸大名に発給、家康打倒をもくろむのでした。7月25日、家康は下野国(栃木県)小山で諸将と評定し、西軍と決戦に及ぶことを決断。会津征伐を中止し、後に西方に向かうことになります。

兄が徳川側、父と弟が豊臣側について一家全滅を回避した

真田昌幸・信幸・信繁らは、家康軍と合流するため、宇都宮に向かっていましたが、下野の犬伏に着陣した夜、三成方が発した家康弾劾文が届くのです。このまま家康軍に合流し、徳川に加勢するか。それとも三成方に味方するか。真田親子の密談が始まります。父・昌幸は三成方に付くことを表明し、次男・信繁はそれに賛成したと言われます。

信繁は、かつて、豊臣秀吉の人質として大坂に送られたことがありました。しかし、決して冷遇されたわけではありません。秀吉の家臣・大谷吉継の娘との婚姻。また、文禄3年(1594)11月、従五位下に叙任され「豊臣」姓も与えられていたことから、秀吉に気に入られ、厚遇されていたことがうかがえます。

当時、信繁は大名ではありませんでした。それなのに、先述のような厚遇。信繁に、秀吉(豊臣政権)への強い忠義心が存在したとしても不思議ではないでしょう。父・昌幸の「三成方に付く」との言葉に、信繁がすぐさま賛同したとの逸話もうなずけます。