1985年の日本経済、世界経済
当時の経済の規模はどんなものだったのか。国内で作り出される付加価値(売上高-仕入れ)の合計である「名目国内総生産(GDP)」を見ると、1985年は321兆円でした。直近の2023年4~6月期の年換算は589兆円ですから、当時は現在の54%程度の水準です。
名目国内総生産(GDP)は給与の源泉ですから、給与水準も今の半分程度でした。「実質国内総生産」の成長率は5%程度でした。
ちなみに1985年当時の米国の名目国内総生産(GDP)は4兆3000億ドル、当時のレートで換算した日本は1兆4000億ドル程度で世界第2位でした。ちなみに、第3位の西ドイツは6000億ドル強、8位の中国は3000億ドル程度でした。世界全体では12兆4000億ドルでしたから、それぞれ米国は約35%、日本は約11%と世界の中で大きなプレゼンスを持っていたと言えます。
日本は高度経済成長が終わって安定成長期に入っていましたが、1ドル240円程度のドル・円レートの水準は、日本の輸出にはとても有利で、先にも述べたように、とくに米国においての貿易赤字が大きな問題となっていました。米国での自動車や家電の輸出が急増し、議会の前などで日本車や日本製の家電製品がハンマーで打ち壊されるといったデモンストレーションが行われたのもこの頃です。
そこで取りまとめられたのが、先に述べたプラザで合意だったのです。翌年の1986年には150円程度、87年には120円程度まで急速に円高が進みました。
バブル景気の発生
日本では円高による懸念が広がりました。当時の日本は輸出主導でしたので、円高により輸出産業が大打撃を受けると考えられたのです。政府は円高対策もあり、金利を下げるとともに資金供給量を極端に増やしたため、その後のバブルにつながったのです。
当時は、ちょうど外資系金融機関などが日本に進出を始める時期と重なったのですが、今と違って大手町界隈でも、外資系金融機関の眼鏡にかなうようなビルはほとんどありませんでした。当時は赤坂のアークヒルズだけが外資のレベルに合うビルと言えたほどでした。
そこで、ビル開発が始まったのですが、円高対策のための低金利、資金供給量の増加が、銀行の融資を通じて、不動産業界を活気づけました。
当初は大手町、そして東京駅の反対側の八重洲あたりで土地取得が進んだのですが、それが周辺地域に広がりました。どんどん地価が上がるので、今度は投機目的の資金も不動産業界に流れ込み、「地上げ」が横行してバブルが発生したのです。都内の住宅地の地価が、数年で4倍に跳ね上がったということもありました。
余った資金は株式やゴルフ会員権にも流れ込みました。プラザ合意直後の1985年11月2日に1万2808円だった日経平均株価は、89年の最終取引日には3万8915円まで上り詰めました。一気に3倍以上です。また、現在は4000万円程度で取引されている小金井カントリークラブの会員権が4億円をつけるということが起こったのもバブル期です。
また、余った資金は銀行融資を通じてM&Aの原資ともなり、三菱地所がニューヨークのシンボルのひとつロックフェラーセンターを買収、その後、破綻した青木建設がカリフォルニアの超名門ゴルフ場のペブルビーチ買収などに動きました。
名目国内総生産は、90年には437兆円となり、85年と比べて4割近く増加しました。まさにバブルだったのです。
しかし、バブルはしょせんバブルですから、不動産税制の変更や、銀行の融資スタンスの変化で、あっけなく崩壊しました。日経平均株価は89年末が先ほど触れた3万8915円がピークで、翌年1990年には一気に下落、土地はそれより少し遅れて急速に価格を落としました。先に述べた4倍に上がった住宅地はそれほどの期間が経たない間に4分の1に下落しました。バブルは90年代前半に崩壊しましたが、GDPは96年には504兆円、97年には515兆円まで伸びました。