涙ぐましい努力の結果、家康に認められた

繰り返しになるが、関ヶ原合戦に遅参した秀忠を、譜代や諸大名は「凡庸な二代目」と心の底では軽んじていた。もちろん秀忠もそれはわかっていた。だからこそ、実父の家康を神のようにあがめ、その行動様式を徹底的に学ぶ努力を続けてきたのだ。この逸話が、それを物語っていよう。

だが、こうした秀忠の涙ぐましい努力を、家康が認識していたかどうかはわからない。

河合敦『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)
河合敦『日本史で読み解く「世襲」の流儀』(ビジネス社)

家康はまた、有能な武将を選んで秀忠につけた。立派な跡継ぎにしようという親心だ。その一人が、立花宗茂である。宗茂は不敗の名将として知られ、大友義鎮の家来だったが、九州平定で島津の大軍を引きつけて孤軍奮闘したことで豊臣秀吉から独立大名に抜擢され、柳川の地を与えられた。

さらに、朝鮮出兵でも明の大軍を食い止める働きを見せ、名将として名を高めた。関ヶ原合戦では、西軍に属して東軍の大津城を攻め落としたが、西軍が敗れると改易され浪人となった。

しかし、執拗しつように失地回復を家康に働きかけたので、ついに改易から六年後、家康は宗茂を登用することに決めた。そして、側近の本多正信に対し、「秀忠は年若なので、律儀にして戦功を上げた者を相談相手にしたい」と述べ、宗茂を秀忠に付属させたのである。

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