「ナルちゃん憲法」へのバッシングと「理想の家族」像
この幻想は、「ナルちゃん憲法」にも通じる。
天皇陛下=徳仁さまの幼少期のしつけなどについて、美智子さまは、のちに「ナルちゃん憲法」と呼ばれる方針を残している。
これもまた、戦前の大家族から、戦後の核家族へ、という流れに乗って、広い範囲から支持を得たものの、「伝統」を重んじる立場からは叩かれる。
そうした心労が、3年後の流産への遠因になった、とも考えられよう。
そこから2年後には文仁さま(いまの秋篠宮さま)を、さらに4年後には清子さまをご出産されると、3人の子どもをひとりで育てる母親、として、「理想の家族」像を投影されるようになる。
明治期にできた大日本帝国憲法では、天皇や皇族が「理想の家族」になるとは、まったく想定されていなかった。神聖にして侵してはならない、畏れ多く、敬う対象だった天皇に連なる人たちは、手の届かない、雲の上の存在だった。
日本国憲法では、たしかに皇室もまた民主化されたとはいえ、それでも、神々しいオーラを放ち、崇め奉らねばならない、そう考えている国民もまだ根強かった。
こうした風潮を、一掃した、いや正確には、一掃したと語らせるようになったのが、美智子さまだったのではないか。
ご成婚から子育てを経て、ますます熱狂と罵倒が同居する、それが美智子さまに向けられる人々の思いだったのではないか。
声を失うまで/声を失ってから
矛盾する2つの思いによる重圧に耐えられなくなったのが、いまから30年前、1993年の誕生日だった。
その日、美智子さまは赤坂御所で倒れられ、声を出せなくなる。
直接の原因となった記事が、どの雑誌のものだったのか、ここでは置こう。宝島社と文藝春秋、それぞれの関係各所に銃弾が打ち込まれる騒動の原因が何なのかも、ここでは置こう。
それよりも重要なのは、倒れて、声を失った、と公表したところにある。ご成婚から30年近くの長きにわたり、毀誉褒貶にさらされてきた、そのストレスが沸点を超えた、そう明らかにしたことを意味するからである。
この騒動を経て、美智子さまへのバッシングは、それから四半世紀以上にわたって、ほぼ消える。マスコミや世間が躊躇したから、だけではない。時を同じくして上皇陛下とともに国内外各地への慰霊や、被災地へのお見舞いといった、「平成流」と呼ばれる旅を増やしていったからであろう。
結婚、子育てを経て、ここで三たび、彼女は、人々の憧れの的となったからである。
恋愛を経て結ばれ、みずからの手によって全身全霊で子どもたちを育て上げ、老後には、社会に貢献する。これほど「理想的」と思われる姿があるだろうか。これだけみんなが目指すべき姿勢があるだろうか。
ここに、彼女が常にバッシングと絶賛、その2つの相反する反応を受け続けてきた理由がある。
そして、声を失ってから彼女が得たものは、完成されたライフコースの象徴という、ただただ尊敬の的となる立場だった。そこにはもはや、彼女の生き方への反発は見られない。賛美をいくら重ねても足りない、そんなムードが日本中を支配した。