さすが西鶴、さすがの才覚

本書が現代の『プレジデント』や『日経ビジネス』と違うのは、「年収3000万のビジネスパーソンの勉強術はこうなっている、だから諸君もこういうスキルを身につけましょう」といったシンプルかつストレートな話にはなっていないということだ。主張が矛盾に満ち満ちている。西鶴は一筋縄ではいかない人だ。

『日本永代蔵』は江戸時代のエンターテイメント小説の典型的な構成をとっている。巻一、巻二……と巻六まで分かれていて、各巻はいずれもエピソード集になっている。エピソード間のつながりはほとんど意識されていない。巻一の最初に出てくるのが「初午は乗って来る仕合せ」という話。劈頭の書き出しからして、矛盾しまくっている。まず、こんな調子で一席ぶつ。

「凡人にとっての、一生の一大事は世渡りの道であるから、士農工商はもとより、僧侶・神官に限らず、どういう職業にあっても、倹約の神様の御告げに従って金銀をためなければならない。この金銀こそ、両親を別にしては命の親と呼ぶべきものである」

要するに、金こそすべてという話だ。しかしその直後に、こともなげにこう言い放つ。

「だが、人の命は、長いものと思っても、翌朝どうなるかわからないし、短いものと思えば、その日の夕方にもどうなるかわからないものだ。(中略) まことに人の命は、ほんのわずかの間に火葬の煙と消え失せてしまうもので、死んでしまえば、金銀とても何の役に立とう――瓦や石にも劣るものだ。あの世には役立たない」

要するに、人生カネじゃないよ、というイイ話だ。かと思えばさらにこう続ける。

「とはいうものの、それは残しておけば、子孫のためになるものだ。ひそかに考えてみると、世の中で人間の願いといえば、何によらず金銀の力でかなわないここといえば、天下に生・老・病・死・苦の5つがあるだけで、それより他にはないのである。金銀にまさる宝がほかにあろうか」

このように、「カネなんてあっても仕方がない」と「やっぱりカネがものをいう」という、まるで違う主張の間を全編を通じていったりきたりするのである。矛盾を矛盾のままダラリと提示するのが「井原スタイル」だ。

これだけ読み継がれてきている『日本永代蔵』の「ツボ」は、まさにここにあると思う。そもそも商売や金儲けというのは、矛盾に満ちたもので、一筋縄ではいかない。金が儲かると税金も払えるし、社会貢献できるし、人も雇えるし、株主に配当もできるから、いいことづくしではないか、という理屈が成り立つ。しかし一方では、従業員を過酷に使って搾取して、挙句の果てにリストラ、環境問題も健康への影響も青少年の育成も伝統文化の保護も知ったこっちゃない、カネに色はない、慈善事業とちゃうねんで!という側面も金儲けについて回る。なぜ商売や金儲けというものがこうした矛盾を抱え込むのかといえば、商売を行う当の人間が矛盾に満ちた生き物だからである。その矛盾を書き出しから前面に出す。井原西鶴、さすがの才覚である。

カネを万能のものとして崇拝する思想と蔑視する思想を出したりひっこめたりしているうちに、何を言いたいのかにわかにはわからなくなっている「井原スタイル」の真骨頂ともいえる箇所を紹介したい。

元手のいらない手堅い商売をして財をなした商人が、その金を老後にじゃんじゃん使って面白おかしく暮らしたという話のところで、西鶴はまずこう書いている。

「この人は、老後も若いときと変わらず、一生けちで通したとしたら、富士山を白金にしたくらいの財産を持っていたからとて、結局は武蔵野の土、橋場の煙となってしまう身であることを悟ったことであろうが、じつは賢明なことに、老後の生活費を別に取っておいて、世の中のあらゆる楽しみをして暮らしたのであった」

で、この老人は他人にさまざまな施しをしてあげるものだから、周囲に重宝がられて評判も良くなる。亡くなったときの葬式といったらそれは立派で「そのまま仏様にでもなられるのかと思われるほど」で、「あの世でもさぞかし仕合せであろうと、万人がこれを羨んだものだった」。そしてこう結ぶ。

「(お金をいくらためても)とてもあの世へは持っていけないものだが、さりとてこの世でなくてはならぬ物といえば銀[カネ]だ。銀[カネ]の世の中とはよく言ったものである」

どちらが西鶴の本音なのだかわからない。もうどっちなんだ、という話なのだが、「どっちも真実」というのが西鶴の本音だ。こうした論理的には一見矛盾した話を次から次へと繰り出すことによって、西鶴は商売=金儲けの本質を鮮やかに浮かび上がらせる。