「現金切売り・掛値なし」:越後屋呉服店の事例

『日本永代蔵』のなかでももっとも有名なエピソードは、巻一の「昔は掛算今は当座銀」にある呉服屋の話であろう。このエピソードにはめずらしく実在のモデルがいる。1673年に京都から江戸に進出して大成功した越後屋呉服店の三井八郎右衛門という人である(『日本永代蔵』では三井九郎右衛門という名前になっている)。

越後屋の成功は三井八郎右衛門が創造した独自の戦略によるところが大きい。当時の江戸の商売のメインストリームは、後藤縫殿助や茶屋四郎次郎といった高級幕臣や諸大名の家に出入りして掛値で販売する「御用達ビジネス」だった。ところが、こうしたお得意様に食い込んでいく商売があまりに繁昌したので、そのうちに参入者が多く現れ、過当競争による得意顧客の争奪戦で収益性は低減していった。そのうえ、太い顧客だった武家の財政が逼迫してくる。多額の売掛金が数年未払いになるなど、既存の大規模商人の営業基盤が揺らいできた。

そこにまったく新しい戦略ストーリーを持ち込んだのが越後屋呉服店だった。その中核的な構成要素は、よく知られているように「現金切売り・掛値なし」という決済方法であるが、それだけが越後屋の戦略ではない。『日本永代蔵』が描く越後屋呉服店(とは書いていないが)の商売とは以下のようなものだった。

「三井九郎右衛門という男は、手持金の威力で、昔の慶長小判とゆかりのある駿河町という所に、間口9間、奥行40間に棟の高い長屋造りの新店を出し、すべて現金売りで掛値なしということに定めて、40人余りの利口な手代を自由にあやつり、1人に1種類の品物を担当させた。たとえば金襴類に1人、日野絹・郡内絹類に1人、羽二重に1人、紗綾類に1人、紅類に1人、麻袴類に1人、毛織に1人というふうに手分けして売らせ、おまけにビロード一寸四方でも、緞子か毛抜き袋になるほどでも、緋繻子を槍印にするだけの長さでも、竜門模様の綾絹を袖べり片一方分だけでも、自由に売り渡した」

そもそも店の営業スタッフが顧客のお屋敷に出向いて商談をするのが従来の商売だったが、越後屋ではこちら側が出て行くのではなく、逆に客に店に来てもらう。そのために間口の広い店を構える。そこに店員を大勢配置する。のんべんだらりと接客するのではなく、1人に1種類の品物を担当させる。そうすると販売員が専門分野の商品知識を持つことができる。さらに、異なった顧客のニーズに徹底して個別化した販売をする。反物を山ほど買う人にも一切れしか買わない人にもニーズにあわせて自由に売り渡した。要するに、越後屋は(反物のように高額の)「モノを売る」という仕事を再定義し、それまでの商売の顧客接点を全面的につくり変えた。モノそれ自体の価値ではなく、お客さんへの売り方を変えるところに価値の正体があった。商品知識のある店員をそろえ、急ぎの顧客には即日渡しのサービスまでしている。

「ことに奉公先のきまった侍が、急に主君にお目見えする際の礼服や、いそぎの羽織などは、その使いの者を待たせておいて、数十人ものお抱え職人が居並んで、即座に仕立ててこれを渡してやった。そんなふうであるから、家業が繁昌し、毎日金子150両平均の商売をしたという。世の調法(重宝)とは、この店のことだ。この店の主人を見るに、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところもないが、ただ家業のやり方にかけては人とは違って賢かった。大商人の手本であろう」

こうした顧客接点のあり方が、有名な「現金切売り・掛値なし」を可能にした。従来の顧客のお屋敷に出向いた商談であれば、顧客ごとのアカウント営業(この場合、商品知識よりもその特定の顧客に対する知識が重要になる)になるので、売掛で商売をするのが自然だっただろう。現金切売り・掛値なしにしたことで、キャッシュフローが飛躍的に潤沢になり、商売の持続的な拡張が可能になり、越後屋は大成功した。これぞ独自の戦略ストーリーである。