※本稿は、茂木誠・松本誠一郎『“いまの世界”がわかる哲学&近現代史 プーチン、全体主義、保守主義』(マガジンハウス新書)の一部を再編集したものです。
マルクスのライバルだった「バクーニン」
【茂木】ロシア革命の黒幕がユダヤ人だった、という話は昔からありました。たとえば、マルクスのライバルだったバクーニンがこんなことを言っています。「マルクスの共産主義は、中央集権的な権力を欲する。そしてその国家の中央集権には、中央銀行が欠かせない。このような銀行が存在するところに、人民の労働のうえに相場を張って儲けている寄生虫民族ユダヤ人が存在手段を見出すのである」――。『バクーニン著作集』(白水社)の第6巻に入っている文章です。
【松本】バクーニンは革命における、中央銀行の役割というのを見抜いていた。
【茂木】バクーニンは、マルクスのライバルということで散々叩かれ、革命の裏切り者扱いを受け続けた人物です。だから、バクーニンが何を言っていたかということはほとんど紹介されない。『バクーニン著作集』は日本語版が1973年に出て絶版になり、それ以来復刊されていません。バクーニンの考えが広まったら共産主義主流派の人たちがよほど困るのでしょう。
ロシア革命のリーダーの一人であるケレンスキーはレーニンのライバルでしたが、彼の思想は遡るとバクーニンです。つまり、ロシア革命にはもうひとつ他の道があった。「バクーニンの道」という、共産主義とは別の道があったのです。
【松本】「バクーニン」⇒「ケレンスキー」の系譜ということですね。
【茂木】ケレンスキーの社会革命党というグループ、通称「SR(エス=エル)」です。
【松本】この社会革命党を倒してボルシェビキ党が権力を握り、レフ・トロツキーとスターリンの党内の権力闘争を経てスターリンが権力を握ります。
十月革命後の選挙ではケレンスキーの社会革命党が圧勝していた
【茂木】それが、1917年の「十月革命」です。十月革命では、3つの局面がありました。
まず、ブルジョアジーの「臨時政府」があり、それに反対する社会主義グループの「ソビエト」という別の政府があった。ソビエト内は二つに割れていて、社会革命党のケレンスキーとボルシェビキ党のレーニンが争っていた。臨時政府、ケレンスキー、レーニンの三つ巴でした。
臨時政府はケレンスキーのほうが、まだ話が通じると思った。臨時政府から「君を首相にしてあげるから、その代わりに言論の自由は守ろうね」「一党独裁の共産党には反対しようね」と誘い、ケレンスキーは承諾します。そして、臨時政府の首相をケレンスキーが引き継ぎます。
それにレーニンたちが襲いかかったのが十月革命です。革命という呼び方は不正確で、実はクーデターでした。レーニンたちは臨時政府を一晩で倒します。
【松本】十月革命は、激しい戦いもあまりなかったようですね。
【茂木】ケレンスキーたちはすぐに逃げましたから。面白いのは、十月革命後の11月にロシアで初めての自由選挙が行われたときのことです。「憲法制定議会」という議会をつくる選挙だったのですが、この選挙で何とケレンスキーの社会革命党が圧勝します。社会革命党が第一党、第二党がボルシェビキ党――選挙で勝ったわけですから、ケレンスキーが戻って政権を取ることもできたはず。ところが、そうならなかった。少数のボルシェビキ党がふたたび暴力と武力で議会を包囲し、第一党である社会革命党員を逮捕してしまいます。以来、ロシアにはまともな選挙がなくなり、ボルシェビキ党の独裁が成立します。その後、ボルシェビキ党が改名して「共産党」となりました。