毛沢東を指導者のように描く「歴史の偽造」

中国共産党の第一回党大会は、上海の中心部にほど近い住宅街で開かれました。当時の党員は約50人。そのうちの代表12人(13人という説もある)が集まりました。

この頃の中国共産党は、大学教授など都市部のインテリが中心でした。「労働者と農民の党」ではなかったのです。

第一回党大会が開催されたこの場所は、現在は記念館となっていて、当時の党大会の様子を再現した蝋人形が展示されています。ただし、ここで最初の歴史の偽造が行われています。毛沢東が中心に立ち、まるで指導者のように描かれているからです。

毛沢東像
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実際には、この頃の毛沢東は、湖南省の代表にすぎませんでした。毛沢東が頭角を現すのは、国民党軍の弾圧を受けて逃げ回る「長征ちょうせい」の過程でした。

できたばかりの中国共産党は、コミンテルンの命令を忠実に実行する党でした。なにせロシアには革命を成功した実績があったからです。コミンテルンは、ロシア革命方式の武装蜂起を指示します。労働者が都市で武装蜂起して革命を成功させろというものでした。中国の事情などお構いなしでした。

武装蜂起はことごとく失敗、ゲリラ闘争へ

当時の中国の国民の多くは農民で、労働者は都市部の一握りの存在に過ぎませんでした。労働者の間で支持を獲得しても全国への党勢拡大にはつながりません。都市部で武装蜂起しても影響力は限られ、武装闘争はことごとく失敗します。

この路線に見切りをつけ、わずかな部隊を率いて山岳地帯に逃げ込んだのが、毛沢東でした。毛沢東は湖南省と江西省の境界地帯にある井岡山に「革命根拠地」を築きます。

当時、ここは「土匪どひ」(山賊)の支配地域でした。毛沢東はここに部隊を駐留させ、山賊のメンバーも共産党の軍事組織に組み込みます。ここを拠点にゲリラ闘争を繰り広げ、やがて腐敗した国民党軍を打ち破っていくのです。

しかし、このとき既に毛沢東の指揮に従わない兵士2000人が処刑されています。命令に従わなければ容赦なく処刑する。これが、この党の伝統だったのです。