初志貫徹し、日本初の近代的な植物図鑑を刊行して実績を残した牧野富太郎。その生涯を本にまとめた俵浩三さんは「牧野は職人気質でやりたいことしかやらなかった。ズボラといわれながらも東京大学植物学教室の助手として77歳まで雇われたのは、『余人をもって代え難し』という能力が認められていたからに違いない」と分析している――。

※本稿は、俵浩三『牧野植物図鑑の謎』(ちくま文庫)の一部を再編集したものです。

高知の豪商である祖母に育てられ、経済観念がなかった

牧野富太郎の生家は、高知県佐川町で古くから小間物屋(雑貨商)と酒造業を営む豪商で、牧野が生まれたころは酒造業を主としていたという。しかし、幼いころに父母と死別し、牧野は祖母に可愛いがられながら育てられた。経済的には何ひとつ不自由する身ではなかった。松村任三教授が「婆あ育ちのわが儘者で、頼んだことをやらない」と評した性格は、このころの生育環境と関係があるのだろう。

植物学者 牧野富太郎氏
植物学者 牧野富太郎氏

しかし植物学をめざして上京した牧野は、家業を継ぐことなく実家の資産を研究費につぎこみ、やがては実家との縁がきれてしまう。大学に職を得たといっても、万年助手、万年講師の身分では安月給である。牧野は自ら、「私は元来、酒屋の一人息子として鷹揚に育ってきたので、十五円の月給だけで暮らすことは容易ではなかった、……牧野は百円の金を五十円に使ったと笑われる事がある」(『植物学九十年』)と回想するように、世間的な経済観念に乏しく、植物研究に必要なら先を考えずに金を遣ってしまうので、だんだん借金もかさんできた。

借金取りが来ると妻は門に赤旗を立て牧野に知らせた

結婚してからは子供がつぎつぎに生まれたので、生活はいっそう厳しくなった。

「食うために仕方なく借金をつづけた。そのために毎月、利子の支払いに苦しめられた。執達吏にはたびたび見舞われた。私の神聖な研究室を蹂躙されたことも、一度や二度ではなかった。私は、積みあげた夥しい植物標品、書籍の間に座して茫然として執達吏たちの所業を見まもるばかりだった。一度などは、遂に家財道具の一切が競売に付されてしまい、翌日は、食事をするにも食卓もない有様だった」(『草木とともに』)という。

執達吏は裁判所の命令によって、財産を差し押さえたり、競売に付したりするのが役目だから、牧野としても「茫然として執達吏たちの所業を見まもる」しかないが、相手が借金とりであれば、「もう2、3日待ってほしい」とか「いま金を工面しているから」とか、何とか口実をつくることもできる。しかし、そういう交渉は牧野の得意とするところではなかったらしい。そのへんのところは、すべて奥さんにまかせていた。奥さんは良妻賢母型の苦労人だったようである。

牧野が大学から家に帰ってくると、家の門に赤旗の出ていることがあった。それは「いま借金とりがきてますよ」と奥さんが気をきかせて出してくれる危険信号だった。

赤旗を見ると牧野は近所でぶらぶらと時間をつぶし、鬼のような借金とりが帰ってから家に入ったという。