一度けんかが起きたら、途中で切り上げる

具体的に言おう。自分も相手もけんかなどしないタイプだと思っていても、他のことでイライラしている時はいくらでもある。

そんな時に相手がごみを出し忘れたなど、ほんのささいなきっかけがあれば、口論は始まってしまう。

「そっちだって掃除をしない時がある」「それなら、そっちだって」などと言い合っているうちに、最初は予想もしなかった大ごとになってくる。そのまま「別れる」まで行ってしまうことだってあり得る。

だからこそどこかで、エスカレートしているやりとりを切り上げられることが大事なのだ。自室に行く、外に出るなどして、きっぱりとその場を離れてしまうのがいい。

ここで「もっと言い返してやりたい」という気持ちを抑えるのは、誰にとっても大変なことだ。けれども、その努力もしない相手は選ばないほうがいい。

そして次には、たがいに口をきかない沈黙の段階が来るだろう。けんかの大きさによっては、数日は続くかもしれない。この段階もこの上なく気分の悪いものなので、無駄に長引かせないことが大事だ。

そんな時に話をせざるを得ない何かのきっかけが訪れて、もとに戻って終了。けんかとは大体こんなところではないか。

この過程のすべてが、メンタルが強くない人にとっては不快極まりないものだ。共同生活の居心地の悪さは、このけんかの多さ次第で決まってしまう。

何よりもまずは、このけんかの発端を軽々しく作らないこと。そして一度けんかが起きたら、意地にならず途中で切り上げること。何よりもこれらを心がけられる相手を選ぶべきだ。

人に向けるのは「好意」にしておく

人間関係の法則について書く以上、どうしても書いておきたいことがある。それは、「人間関係では、人に好意を向ければ好意が返ってくるし、悪意には悪意が返ってくる。だから人に向けるのは好意にしておいたほうがいい」ということだ。

これはこの上ない深みを持った法則なのだ。ここに関する意識が薄い人ほど、けんかを軽々しく始めてしまう。

このことは、古くからある人間の贈り物の文化の研究のなかで、とても大きなテーマになっている。我々は何かを貰ったら、どうしてもお返しをしてしまう。それに対してまたお返しをするという連鎖が起きる。「互酬」という難しい名前がついている。

そして悪意を向ければ悪意が返ってくることまで、この習性に含める専門家もいる。たしかに「お返し」という言葉には、日本語でも英語でも「やり返す」「仕返し」の意味がある。

嫌なことをされたら、同じくらいやり返すとまではいかなくても、好意を向けるのはやめるだろう。こうして今度は悪意の連鎖が起きる。この習性もまた、我々が骨身に染みてよく知っている。だからこそ、軽々しく“開戦”をするのは罪深いことなのだ。

言い方を変えてみよう。もしあなたが人がいいなら、こちらを尊重しているわけでもない相手に、どこまで好意を与え続ければいいのか迷うこともあるだろう。そんな時の目安は、相手が悪意を向けてきたかどうかだ。

悪意を向けられているなら、好意を返さなくていい。そこまでいい人にならなくていい。人間の尊厳はこのようにして保たれるのだ。