対等の意識が薄いほど、けんかに突入しやすい

好意も悪意も含めた「お返し」の法則は、我々の誰もが対等であり、特別に偉い人などいないというもっとも大切な原理の表れである。

基本的人権という概念が欧米から入ってくる前に、どんな考え方がその代わりになっていたのだろう? それがこの「対等」という考え方だと思うのだ。もちろん身分や差別があるなかでの、まるで不完全なものだったけれども。

基本的人権はわからなくても、「自分が人にされたくないことを、他の人にもしてはいけない」なら子どもにもわかる。これもまた対等の原理だ。

悪意の連鎖を起こさないために、けんかを軽々しく始めないこと。そのきっかけを作らないよう最大限の注意を払うこと。それがいかに大事なことか、ここからもわかるだろう。

「いい天気ですね」などと話しかけても、相手には情報としてなんの価値もない。それなのにどうして身近な人にそんなふうに話しかけるのか。

やはり人は近くで生きている以上、自分に敵意がないことを示して好意の連鎖を起こしたいのだ。だからそこで好意を返さずに無視をしてはいけない。

「おたがい対等の原則」への意識が薄いほど、自分の怒りやこだわりのほうを重視して、けんかに突入しやすい。

家で意見の相違があるカップル
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結婚相手、パートナーは、そう簡単には切れない関係を結ぶ相手のなかでは、自分で選べるほとんど唯一の存在だ。けんかが起きやすい相手を選んで、わざわざ不幸になることはない。

すべての人について、そこを評価の第一の基準にしてもいいくらいだ。

相手を傷つけるのは近すぎる距離

日本は実は世界でも有数の、夫婦が同居するのを当たり前だと思っている国だ。ある調査では主要37か国のなかで日本は、一番夫婦の別居率が低かった(※1)

けれどもそこにも、もうこだわらなくてよくなってきている。

かく言う自分も、もう15年以上もパートナーと二人暮らしをしている。

そんな話をすると、「私にはそれができない」と言われることもある。確かにその人は、パートナーがいるのに一緒にシェアハウスに住むなどして、二人きりの同居はしていなかった。

まわりを見回せば、相手がいても同居をしていない人はたくさんいる。近くだけれども別々に住みながら、いつも行動は一緒にしていたりする。

確かに自分たちのように、子どももいない二人きりの同居では、向きあう相手はたったひとりしかいない。けんかが起きても、誰かに介入してもらうこともできない。こういう暮らしを怖いと思っても、不思議ではない。

特に我々の場合はたがいにどこかに通う仕事もあまりしないので、朝から晩まで至近距離にいることになる。三度の食事もたいてい一緒にとる。

そんな暮らしが15年以上も続いているのだから、これは少し誇ってもいいだろう。なにか長続きするコツでもあったのだろうか?

しいて挙げるとすれば、あまりちゃんと同居をしなかったことかもしれない。つまり、近づきすぎなかったのがよかったのだ。

自分の両親の家に行ってみると、確かに自分たちと同じ二人暮らしだ。一日中一緒にテレビを見て、一緒に寝床についている。彼らが生きている世界はひとつだなと感じる。そこがまったく違う。自分たちは、各々別の世界を生きているからだ。