どんな愛情も近すぎれば迷惑

二人暮らしとは言え、我々は常に別の部屋にいる。夜寝る時も別で、世帯も別。それぞれに別の仕事をしていて、相手が何をしているのかはよくわからないことが多い。人前で相手を呼ぶ時は、たがいに旧姓にさんづけで呼んでいる。

ただし食事はどちらかをどちらかが手伝いながら作り、食べている。それすらやらなければ、共同生活はまったく別のものになってしまうだろう。

これを自分の両親のように、もっとひとつの世界に近づけていったら何が起きるかは、少し想像がつく。おそらくたがいが相手に、「もっとこうすればいいのに」と干渉したくなりそうだ。気になって、放っておけなくなると言えばいいだろうか。

相手を放っておけないのは、決していいことではない。

確かにこれまでは、人の世話を焼いたり気づかったりすることは、無条件にいいこととされてきた。けれどもそれも変わってきている。

例えば、子どもに親が愛情を注ぐのは好ましいことだ。ただそれが過剰になると、細かいことまで放っておけなくなる。細部まで指図をしては、その通りにやってくれないと不満になる。

だんだん過干渉という名の虐待になってくる。親が子にあまりに熱心に勉強をさせることは、教育虐待と呼ばれている。

ここには、人間関係すべてについての決定的な真実がある。それは、

「どんなに愛情をもってやったとしても、あまりにも近づきすぎると、悪意をもっていじめているのと同じことになる」

ということだ。ストーカーを見ればいい。好意か悪意かなんて、そこでは問題ではない。問題は近づきすぎた距離のほうにあるのだ。ハラスメントについても言えるが、我々が直面している加害の問題は、むしろ適切な距離が取れないことから来ているのだ。

では、「こうしたほうが、絶対に相手の人生は向上すると思えるのに、どうしてもそうしてくれない」という時はどうすればいいのだろう。

本人がそうしないのであれば、人生が向上しなくても、それはそれでしかたないのだ。そう思ってあきらめるしかない。

「本人の勝手」とはそのくらい大事なことなのだ。

注目される「前向きな別居」

最近は、夫婦の「前向きな別居」が注目されるようになってきた。結婚していても別居する有名人が紹介されたり、“別居婚”という言葉が肯定的に使われるようになった。“週末婚”という言葉もよく目にする。

いずれも結婚の届けは出しても別の場所に住み、時々会うという結婚生活のことだ。

結婚指輪とフレッシュラベンダー
写真=iStock.com/Vasil Dimitrov
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そんな別居のなかでも特に興味深いのが“卒婚”だ。これは結婚はしたままで、別居も含めて夫婦が独立して人生を楽しむ生き方を言う。主に、ある程度結婚生活を続けた中高年夫婦について言われるものだ。中高年の離婚が増えていることとも関連した動きだろう。