1992年が地球温暖化対策の元年

では、ここから時間をさかのぼって、日本と世界の地球温暖化対策の経緯をざっと振り返ってみたい。

世界の地球温暖化対策の原点とされるのが、1992年6月に、ブラジルのリオデジャネイロで開催された「UNCED」(United Nations Conference on Environment and Development:国連環境開発会議、俗称「地球サミット」)だ。

この会議の4年前、1988年には、「UNEP」(国連環境計画)と「WMO」(世界気象機関)により「IPCC」(気候変動に関する政府間パネル)が設置され、ここで、GHGの増加による地球温暖化の科学的、技術的、そして社会的、経済的な評価を行っていくことが決まった。

そうして、1990年に「第1次評価報告書」(AR1)が公表され、地球温暖化が「科学的不確実性はあるものの、気候変動を生じさせていることを否定できない」とされた。このAR1を踏まえて開催されたのが、「地球サミット」である。

日本主導で採択された「京都議定書」の重み

「地球サミット」では「リオ宣言」が採択され、この宣言の合意事項を実施するためのルールとして、「気候変動枠組条約」「生物多様性条約」「森林原則声明」「アジェンダ21」などが採択された。

次のエポックは、なんといっても1997年12月に、京都で開催された「COP3」である。ここで採択された「京都議定書」は、その後の世界の地球温暖化対策の指針となった。京都会議では、日本が議長となり、初めて地球温暖化対策を具体的にどうするかが話し合われた。そうして、先進国における国別のGHGの削減目標が定められ、具体的な削減行動が義務づけられることになった。

日本政府は、この「京都議定書」を踏まえて、「地球温暖化対策の推進に関する法律」(地球温暖化対策推進法)を制定した。「京都議定書」は2005年に発効し、そこから法的にも削減義務が発生した。

このような経緯から、2001年に行われた中央省庁再編では、環境省が発足した。しかし、環境省が地球温暖化対策を主導することは、今日までできていない。