梅毒は家康の次男・結城秀康ら戦国武将の運命を変えた
戦国武将は男色ばかりでなく、遊女とも関係を持ったことでしょうけれども、南蛮貿易の始まる戦国時代以降、日本に梅毒がもたらされています。そのため、戦国武将でも梅毒が原因で亡くなった者も少なからず存在します。
たとえば、徳川家康の次男である結城秀康は最終的には梅毒で亡くなったとされています。梅毒の末期症状である鼻が欠けるところまで、病は進行してしまったそうです。先述したように、家康自身は梅毒を恐れて、決して遊女には近づかなかったと伝わります。
また、私が驚いたのは、豊臣秀吉の軍師であった黒田官兵衛(如水)も梅毒だったのではないかとされていることです。軍略に優れた天才的な武将であると同時に、キリスト教を信仰し、茶を嗜む文化人で、極めて合理的な思考の持ち主でした。キリスト者なわけですから、一夫一婦制を守り、側室は持たずに正室だけを生涯大切にした、現代的な教養人だと私は考えていました。
頭脳明晰な黒田官兵衛も実は梅毒に冒されていたか
ところが、どうやら彼は梅毒持ちだった。頭巾を被った肖像画が残されていますが、これは梅毒の腫れ物を隠すために被っていたのではないかとも言われています。
ご存じのように梅毒は病気が進行するとやがて、脳が侵され、錯乱して怒りっぽくなったりするなど感情の起伏が強くなり、情緒が不安定になるというような症状が現れると言われています。仮に黒田官兵衛が梅毒だったとすると、晩年の黒田官兵衛のエピソードも納得させられてしまうのです。
官兵衛は晩年、非常に怒りっぽくなり、家臣を突然叱責したりしたそうです。以前の官兵衛はむしろ、合理的に物事を指摘したり、優しく諭したりするようなタイプだったので、まるで人が変わったかのようになったのです。
家臣たちは官兵衛の異変を、息子の黒田長政に訴えます。長政は父に、「いったいどうしたのですか」と尋ねたところ、官兵衛は自分がわざと乱心することで、家臣の忠義が現当主である長政に向くよう芝居を打ったのだと答えました。あえて家臣に冷たくあたり、代わりに長政を守り立てるように仕向けたというわけです。