子どもたちは「生きるために平等」で団結し、協力し合う
敗戦になってから、それまで学校におった時には、できる子、できない子とか、いろいろ区別、差別があったじゃない。でもこの時になったら、いっさい、それがなかった。子どもたちが、ものすごくあっけらかんとして、たくましかったと思う。みんな、できることを何でもやる、ほいで、助ける。本当にあの時の子どもの団結力というのは、あれが本当の人間の姿なんじゃないかって。勉強は関係ないの。学校ないんだから、何もできない子も、いばっとった子もいざとなったら一緒になって遊べる。それから歌もつくった。
〔鍋墨を塗って〕黒い顔をしとっても、ボロを着とっても何もはずかしくない。今から思うとすがすがしい。
歌も歌うし、もう死ぬだけなんだし、日本へ帰りたいと思う暇もない。ただ、そこにある物を分け合って食べればいいんだ。ただ「ひたすら最後の一人まで戦って死ぬ」〔という団長たちの決定〕がなくなっとった(笑)。それは団のおじいさんたちが考えてくれたんだけど、女と子どもがやっぱり強かったと思う。あれが男がやっとったらおさまらん。
――ああ、すごい言葉ですね。
うん。ね。生きるっていうの。物を生み出すこともすべて女がやった。
学校へ行ける/行けない、勉強のできる/できないに関係なく、子どもたちは「生きるために平等」で、団結し、協力し合い、そのさまを栄美は、「今から思うと、すがすがしい」と言い切る。そして子どもたちは「最後の一人まで戦う」という団の男性たちが敗戦直後に下した悲壮な決断とは無縁の「生き延びる力」に満ちていた。
「いけにえ」の2人が5日後に帰ってくると…
ソ連兵への女性の「提供」に関して、栄美は一般団員と同じく、「他の開拓団から2人の女性が、自らいけにえになってみんなを守ると申し出てくれた」と語る。
11月25日に本部にいた栄美は、校庭前に団員が集合し、団員号泣のなか二人をソ連側へ送り出した場には参加していない。しかし、『殉難の記』では5日後(栄美の記憶では約2週間後、「他の開拓団開拓団の西田」の妹・Rさんの記憶では3カ月後)に団へ帰されてきた2人を、こともあろうに団の内部から心無い言葉で迎える人たちがあったことはよく覚えている。