知人の社長に紹介されて新聞記者の道に
女学校を卒業する際、母は京子を尾崎紅葉(*6)の弟子にさせようと伝手を頼ったものの紅葉が逝去して失敗。その後は「何しろ速記(*7)というものと、何かもう少し勉強して御覧」という母の言葉のもと、京子を佃速記事務所(*8)の夜学と高等師範の予備科の大成学館に通わせ、川柳作家阪井久良伎(*9)のもとで川柳の指導を受けることとなった。
芸事よりも頭脳労働に方向転換を図ったものとみえる。いずれにしても手に職をつけないと自活していくのは困難なわけで、速記や作家の弟子入りは教師や医者を目指すよりも比較的ハードルが低い。
母子は次男を頼って大阪に転居、3年後の1906(明治39)年3月、京子は創刊間もない「大阪時事新報」に入社した。
入社のきっかけは知人の高見という大阪の社長に紹介されたとのことで、こちらも伝手を頼ったようである。試験はなく社長の福澤捨次郎(*10)に「兎も角もやって御覧なさい、あんまり若い娘さんだが」と言われて入社した。京子が入社した当時は新聞社が女性を採用するようになって10年程度。主要な新聞社に婦人記者が1、2名という環境(*11)だった。
(*6)尾崎紅葉 1868(慶応3)年生まれ。『金色夜叉』などで知られる、明治の日本における重要作家の一人。1903(明治36)年没。
(*7)速記 1882(明治15)年に田鎖綱紀が考案、発表し、講習会を開いたのが始まり。以降、演説会や講談、国会の議事に採用された。
(*8)佃速記事務所 1866(慶応2)年生まれの速記者、佃与次郎の起こした佃速記塾。
(*9)阪井久良伎 1869(明治2)年生まれ。井上剣花坊とともに、文学的営為としての川柳を提唱する川柳革新運動を担ったことで知られる。1945(昭和20)年没。
(*10)福澤捨次郎 1865(慶応1)年、福澤諭吉の次男として生まれる。1896(明治29)年から1926(大正15)年まで、時事新報の社長を務めた。1926(大正15)年没。
(*11)日本初の婦人記者は諸説あるが明治30年代に女性労働者が増加し、女性読者を獲得しようとした新聞社が家庭や婦人向け記事を掲載し始め、婦人記者の採用も増えた。
行商人に化けて貴族院の邸宅に潜り込む
最初の仕事は、大阪北新地の芸者を訪ねるという企画。この芸者の女性は桂太郎(*12)元総理大臣の非嫡子(*13)を産み、目下桂公に娘の認知を迫っている最中とか。さすが「化け込み」の始祖、のっけから下世話ネタである。
以降、〈外国人の訪問だけはする資格がありませんでしたが、その他は何によらず自分の思うまゝに、筆を走らせ〉たという京子。その他とは家庭欄や、婦人訪問、教育や文芸などのジャンルである。あるときは大隈重信(*14)の関西旅行に随行し、他の記者に大隈の娘と間違えられたこともあったという。こんな挿話をさりげなく入れてくるところは、後にお騒がせ女として知られる京子の面目躍如である。
入社から1年半後、フランスの雑誌に婦人記者が花売りに化け込んだ記事が出ていたと聞きつけ、編集長に直談判。そうして始まったのが「婦人行商日記 中京の家庭」の連載だった。
京子が化けたのは輸入品の雑貨(*15)を売る〈聊か上流向の小間物屋〉の行商人。区役所で正式に鑑札を取り荷物も仕入れた。変装は襟掛の着物を裾短に着付け、浅黄繻子の帯を平たく結び、継ぎ接ぎの白足袋に下駄を突っ掛けたもの。3貫目(約11.25キロ)の大風呂敷を背負うとよろけて足元が定まらなかった。
ともあれこの姿で、知事官邸、貴族院議員邸、富裕な子女が通うことで知られた私立名古屋英和学校(現名古屋中学校・高等学校)校長邸、病院、弁護士事務所、遊郭、名古屋地方裁判所長邸、陸軍軍医監邸など、さまざまな家庭に潜り込んだのだ。
(*12)桂太郎 1848(弘化4)年生まれ。政治家。総理大臣を3期務めているがこの時期は第1期と第2期の間に当たる。1913(大正2)年没。
(*13)非嫡子 法律上の婚姻関係にない男女間に生まれた子。
(*14)大隈重信 1838(天保9)年生まれ。内閣総理大臣を2期務めた。東京専門学校(現早稲田大学)創立者。1922(大正11)年没。
(*15)雑貨 当時は「小間物」と言った。京子が扱ったのは化粧品や爪磨き、麻のハンカチ、人形、造花、リボンなど。
満員列車でのうわさ話も記事に盛り込む
全26回の連載中訪問した場所は34軒。そのうち商品購入にまで至ったのはたった9軒。残りの25軒は断られている。それでも1カ月近く連載が続いたのは覗き見的な切り口が新鮮だったからだろう。細かい描写やときには皮肉を交える京子の書きぶりもさすがはキラー・コンテンツ産みの親といったところ。
例えば第3回目は、貴族院議員の神野金之助邸の回(10月20日付)。邸へと向かう途中、ある日の満員列車中で小耳に挟んだ金之助のうわさ話を巧みに記事に盛り込む。話していたのは〈馬鹿に黄いろく光る物を体中にひけらかしたる三十格好〉の男と、乳母と子ども2人のご一行。
「今度は華族さまからお嫁さまが見えるげなでなも、今までのように知らぬ間に秘密と取る訳にも行くまいぎゃーえも」
と名古屋弁丸出しで語っていた。話の主は神野家に住み込んでいる人間らしい。それにしてもぎゅう詰めの列車内で主人の醜聞を大っぴらにするなどなんとも破天荒な所業である。また京子も、真贋のわからぬうわさをなにも新聞紙上で発表せずとも、と読んでいてそら恐ろしい気持ちになる。しかし、このような際どさこそが受ける秘訣だったのだ。