アサヒビールの「スーパードライ」は、1987年の発売から35年以上たっても同社の看板商品であり続けている。なぜこれほど長い間売れているのか。ジャーナリストの永井隆さんは「これまでなかった『苦くないビール』という市場を作ったからだろう」という――。

※本稿は、永井隆『日本のビールは世界一うまい! 酒場で語れる麦酒の話』(ちくま新書)の一部を再編集したものです。

ビールで乾杯
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「ドライを出せ!」と恫喝する業者まで

アサヒビールが1987年に発売した「スーパードライ」の人気は沸騰し、需要に供給が追いつかなくなる。1985年2月に吾妻橋工場を閉鎖し、工場リストラを実行した後での大ヒットだった。しかも、87年に6つあった工場はいずれも老朽化していて、思うような増産ができなかったのだ。

やがて、「社員はスーパードライを飲んではならない」という“御触れ”が、社長の樋口廣太郎から全国の支店や営業所に発せられる。

72年に慶応文学部を卒業してアサヒに入社した二宮裕次は、87年9月マーケティング部の課長代理から堺営業所長に異動する。「堺に赴任した頃、私はドツカレ始めてました」と二宮は話してくれた。関西でもスーパードライの人気に火がつき、商品が足りなくなっていたのだった。

営業所には連日、酒販店から「スーパードライはないか」という電話がひっきりなしにかかり、なかには直接営業所にやって来て「ドライを出せ!」と半ば恫喝する業者まで現れていた。

堺営業所では、特約店(問屋)に対して「お願い箱数」といって割当量を設定して管理するが、次の注文が矢の催促でやってくる。そもそもが、1953年から少なくとも85年まで32年間も、シェアを落とし続けた会社が、商品を割り当てするような立場に立ったこと自体、初めての経験だった。

営業ランチはラーメンからうな重に

アサヒの厳しい時代を支えた、ある辣腕営業マンは言う。

「スーパードライが出る前、特約店でも酒屋さんでも、昼時に出されるのはラーメンでした。ところが、スーパードライが出た後は、うな重に代わりました。我々への接し方が、ガラッと変わったのです。これがヒットするということだと、しみじみ感じました」

結局「スーパードライ」は87年の年末までに1350万箱を売る。前年に「モルツ」が打ち立てた新製品の初年度販売記録184万9000箱を、あっさりと抜いてしまう。一桁違う数字だった。

アサヒビール全体の販売量は、実に前年比34.9%増の5296万3000箱で、シェアは2.6ポイント上げて12.7%とした。

ちなみにキリンの販売量は2.5%増だったが、シェアは57.2%と2.7ポイントも落とす。サッポロは販売量を6.6%増やしたが、シェアは0.2ポイント落として20.6%。サントリーは販売量を11.6%伸ばし、シェアは0.3ポイント上げて9.5%。4社合計の販売量は前年比7.5%増の4億1776万3000箱となるが、販売量を大きく伸ばしたアサヒの一人勝ちだった。

「スーパードライ」が牽引する形で、ライバル3社も販売量を増やし、市場全体を拡大させた意義は大きい。一社単品が“売れた”だけではなく、全体を伸ばしたのだ。