「ノリ」には事情をわかってくれる人たちが必要

いまは、読み仮名は同じで「椿彩奈」と名乗る同氏は、その著書にあるように、暁星ではほとんど何も差別を受けず、反対に、みんながやさしく接していたという。

「ノリ」を生み出す、その裏側には、決定的には相手を追い込まず、触れられたくない話をそっとしておく、そうしたマナーがある。

おなじく同校OBでミュージシャンのモト冬樹氏は、椿姫氏からの挨拶をきっかけに「イジメとか一回も見たことがない」とブログで振りかえっている(*4)

イジメがまったくなかった、わけではないだろうし、7年前には、校内で刺傷事件が起きている(*5)から、みんなが品行方正で、学校生活すべてが円満で問題なし、でもない。

ここで指摘したいのは、市川氏が「ノリ」を見せるためには、みずからの事情をわかってくれる人たちが必要だったと思われるところであり、彼にとって「週刊誌報道」は、理解者とは正反対だったと考えられる点である。

市川氏がどんな性的指向であろうと、まわりには、そのデリケートな性格を理解してくれる人がいた、そんなふうに後輩としてのわたしは側聞している。

暁星中学校・高等学校
暁星中学校・高等学校(写真=Nyao148/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

強い差別感情や悪意があったとは思えない

香川氏も市川氏も、ともに芸能界、それも歌舞伎という、男(だけ)の世界に生きている。

ミソジニー(女嫌い)とホモフォビア(同性愛差別)だと、その時代遅れの体質をあげつらうのは、たやすい。

しかし、椿氏にみられるように、暁星という「男子校のノリ」には、ホモフォビアはなかったし、少なくとも目立ってはいなかった。

故・瀬戸内寂聴氏の最後の恋を描いたと噂される小説『J』の作者・延江浩氏もまた同校OBであり、ミソジニーと呼べるほど、男だけの世界を満喫する風潮が漂っていたとは言いがたい。

女嫌い「ではない」様子も、同性愛差別を「していない」実態も、どちらも証明するのは、むずかしい。

とはいえ、香川氏のセクハラにせよ、市川氏にまつわる週刊誌報道にせよ、どちらも、強い差別感情や、何らかの根強い悪意があったとは、後輩の身びいきとはいえ、どうしても思えないのである。

マッチョな男たちが、女性や同性愛者を虐げる、といった、わかりやすい構図ではなく、もっと幼く、より単純に、未熟な男の子たち(ボーイズ)が、わちゃわちゃと騒いでいる、それが「男子校のノリ」だったのではないか。

騒ぎはするものの、誰かを最後まで追い詰めはしない。そんな気遣いによって「ノリ」がつくられてきた。

この「ノリ」は、都会(暁星は、東京の千代田区、靖国神社のすぐそばにある)で、幼稚園から高校まで長ければ14年間にわたって育まれる、ひよわさ、かぼそさによって生み出された、危ういものにほかならない。