なぜ安倍元首相だったのか
私は、コロナ禍前後から散発し顕著な犯罪類型となっていた「拡大自殺」や「自棄による劇場型自爆テロ」への分析記事に加え、昨年の安倍晋三元首相銃撃事件発生以来、山上徹也について幾つかの記事を書き、テレビやニューヨークタイムズに至るまで、日本や海外のメディアにも求められるまま解説してきた。
なぜ山上は日本で自警的ダークヒーロー扱いされ、共感や賞賛の声すら湧き、減刑を求める署名運動が起きたのか。女性に至ってはなぜ彼に恋し擁護するような論調まで生まれるのか。そして意見した。
山上徹也という存在は、突然の経済失速から浮上できなかった90年代以降の日本による社会的産物であり、事件はあの時代が醸成し社会の分厚い層へ刻み込んだ強い被害者意識の、必然的な帰結だったのかもしれない。
だが、生い立ちから銃撃実行まで、山上被告の心理的な移ろいを追っていく中に、私がずっと理解できない、論理的に欠けたピースがあった。
頭が良く、努力家でもある山上。40年超の人生をかけて凝縮した宗教2世としての恨みや自棄を向けた先が、なぜ旧統一教会へのめり込んでいった当の母親ではなく、教団関係者でもなく、安倍元首相だったのだろう。
コロナ禍や健康状態の問題で教祖や教団幹部の来日が当分見込めなかった、との本人供述がその理由とされたが、それはどうも十分ではなかった。だからといって、自分の家庭の崩壊や家族の死や窮乏という直接の痛み苦しみの原因として「元首相」は遠すぎる。政治家には自らの政治の責任があるとはいえ、宗教2世が人生の恨みを叩きつける相手として安倍元首相を選ぶのは、思考の飛躍ではないのか。なぜ賢いはずの彼が「ああするより仕方ない」との結論に到達してしまったのか。
ジョーカーに自分を「仮託」した
だが、本書は見事に欠けたピースを埋めてくれる。
山上被告が犯行に及ぶきっかけとなったのは、欠勤するうちにいよいよ金銭的に立ちゆかなくなり、拳銃を製作した部屋の立ち退きが迫り、クレジットカードも止められそうになっていたからだという。山上被告が守りたかったものの一つは、彼自身の人間としての尊厳であるように思えてならない。(中略)そのプライド、すなわち人としての尊厳が踏みにじられ奪われることになるとしたら、まだ人間の尊厳がギリギリ保たれているうちに自分のプライドを剥ぎ取ろうとしているわれわれの生きる社会構造に対して一矢報いようとするのは、人によってはきっと自然なことなのだろう。(P.138「第二部 山上徹也、あるいは現代日本の肖像」五野井郁夫)