社会から責められ続けた母たち
――本書では、2001年に起きた大阪教育大学附属池田小学校事件の被害者遺族にも取材されています。娘を失った「被害者」でありながら、誹謗中傷を受け続けた彼女を取材していくなかでどのようなことを感じましたか。
池田小事件の被害者遺族である彼女は、事件直後、自宅の玄関に何者かによって塩を撒かれていたり、「あんたが悪いから、子どもが死んだのよ」と夜中に何度か電話がかかってきたりしたことがあったといいます。
どうして彼女が責められないといけないのか。他人から責められる所以はないですよね。
受け取ったのは「悲しみではなく希望」
――「被害者」でありながら責められ続ける。そうした複雑な立場に置かれた方に対して、どのような姿勢で取材に臨まれたのでしょうか。
報道で紹介されている姿だけではなくて、本当のことを話そうとしてくださる“その人”の姿を見ようという気持ちは持っていました。そうした心持ちで取材に臨むと、取材前に抱いていた彼女たちについての予想がまったくの思い違いだった、と気づくこともありました。
彼女たちは、特別な人ではなく私たちと同じく普通に生活している人たちです。それが生きる中でさまざまな不条理に直面した。そんな中でも、前を向いて生き抜こうとする姿に胸を打たれました。私が彼女たちから受け取ったのは、悲しみではなくて希望でした。
「かわいそう」と言われることの苦しさ
――河合さんが「被害者」の方から希望を受け取った一方で、世の中にはそうした状況を指して「かわいそう」と言ってしまう人も少なくありません。本人たちがどれだけ前向きに生きていても、「かわいそう」と言われてしまうのはなぜだと思いますか。
子どもが障害を持って生まれたり、難病にかかったり、事件や事故に巻き込まれて亡くなってしまったり。そうしたことを指して「かわいそう」と言う人は、確かに多いとは思います。でも、「かわいそう」なんて言われたくないという人も少なくありません。
「かわいそう」というのは、比較されたうえで発せられる言葉だと思います。たとえば、障害や病気をもっていた場合、いわゆる「普通」と照らし合わせて、その人に何が欠けているかをジャッジされる。「普通」ではないという烙印を勝手に押されたくないと考える人もいます。