夕刊に載っているニュースはほとんど既報

実際、今や夕刊の記事の大半は、娯楽や教養、エンターテインメントなどで占められ、ニュースは海外発がわずかに掲載される程度だ。

果たして、ニュースを読めない新聞が、新聞と言えるかどうか。

一つの新聞ブランドが朝刊と夕刊を連続的に発行する形態、すなわち新聞社が1日に2度ニュースや情報を発信するスタイルは、日本特有といわれる。海外では、朝刊紙と夕刊紙が明確に分かれ、発行主体も異なっているケースが多い。

世界でも特異な存在といえる日本の夕刊の歴史は古い。

日本新聞通史』(春原昭彦)などによると、国内における夕刊は1885年1月1日に、毎日新聞の前身である東京日日新聞が「午後版」を出したのが始まりとされる。

継続的に発行されるようになったのは1910年代に入ってからで、大正デモクラシーの時期に重なる。1日1回の情報発信では満足できず最新のニュースを求めるニーズの高まりに応えようとしたともいえる。朝日新聞が大阪で夕刊の発刊に踏み切ったのは15年3月だ。ラジオも始まっていない時代だった(NHK開局は25年)。

第2次世界大戦時の新聞統制令で、夕刊は、発行を規制されたが、戦後まもなく復活。用紙事情も緩和されて、「メディアの盟主」として新聞が隆盛を迎え、1960年代から70年代にかけて、夕刊や夕刊専門紙が活況を呈するようになった。朝刊と夕刊のセット販売は当たり前になり、各紙は競って発行部数を伸ばした。読売新聞が1000万部を突破したのは94年のことである。

だが、2000年代に入ると、「新聞の時代」は暗転する。

ネットの進展に伴って、だれでもニュースをリアルタイムで、しかも無料で入手できるようになり、情報の発信が朝刊と夕刊の2度しかできない新聞の存在感は年々希薄になっていった。とくに夕刊への影響は大きかった。夕刊が配られるころには、夕刊に載っているニュースはほとんど既報になっているからだ。

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全国に広がった地方紙の「夕刊廃止ドミノ」

このため、読者の夕刊離れは日増しに膨らんでいった。とくに地方紙への影響は大きかった。

00年に福島民報と福島民友が夕刊の廃止に踏み切ったのを皮切りに、夕刊休刊のうねりは全国に及んだ。

08年のリーマンショック後には、秋田魁新報、南日本新聞(鹿児島)、琉球新報、沖縄タイムス、北日本新聞(富山)、岩手日報、山形新聞、中国新聞(広島)、岐阜新聞が相次いで、夕刊の発行を取り止め、朝刊に一本化した。

「夕刊廃止ドミノ」はとどまるところを知らず、20年のコロナ禍を機に、徳島新聞、大分合同新聞、東奥日報(青森)、山陽新聞(岡山)、高知新聞、熊本日日新聞が、続々と夕刊廃止に踏み切った。