「連帯責任」はいつ生まれたのか

【小林】以来、地方大会でも甲子園でも、一回戦で野球強豪校とぶつかった普通の高校が、二桁得点を奪われ完封負けで終わる、などというケースが多発する「非教育的な」トーナメント戦が100年以上続けられています。

甲子園大会の「伝統」を継承しようとするばかりで、高校野球関係者は改革を考えることなく、思考停止状態に陥っています。

【玉木】高校野球でよく言われる「連帯責任」も、もとは1918(大正7)年の米騒動のときに、主催者である大阪朝日新聞の社会部長だった長谷川如是閑にょぜかんが、「父母が苦しんでいるときは子供も連帯して責任を負うべし」と書き、地方大会を終えたあとの本大会の中止を決めたのが最初でした。

その連帯責任が、一人の部員の喫煙で野球部員全員が大会への出場禁止になるなど、珍妙な「教育野球の連帯責任」に変節してしまった。

トーナメント戦以外の発想ができない

【小林】2020年の夏の甲子園大会がコロナで中止になったとき、さらに奇妙な「教育論」を聞きました。ある監督経験者が「最後に負けないと、高校野球が終わらない」と言ったのです。

夏の大会はトーナメントですから、最終的に勝って終わるのは優勝校の1校だけ。他の高校はすべて負けて終わります。それで、最後に負けさせてやらなければ終われないと。そういうまったくおかしな思い込みで、高校生を指導しているのです。

高校野球のトーナメント制という試合のやり方しか頭にない結果でしょうね。

【玉木】トーナメント(tournament)とは、そもそも中世ヨーロッパの騎士たちの馬上槍試合を指す言葉なんですね。負けて馬から突き落とされた騎士は二度と闘えない。しかしスポーツは違うはずです。敗戦から学ぶこともあり、同じ相手と再戦することで、さらに多くの学びを得ることができるはずです。

馬上槍試合
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【小林】高校野球は、なぜかトーナメント戦以外の発想ができずにきた。夏の大会は、第2次大戦を戦って負けた当時の人々の心理状態と、奇妙にリンクしています。

敗戦から新しい日本が始まったように、高校野球でも負けて新しい次の人生に進むと考えているのでしょうか?

高校サッカーは十数年前から「補欠ゼロ」の方針を打ち出してリーグ戦を導入した。部員が100人以上いる高校でも、リーグ戦ならばほとんどの選手が出場できる。その良さを同じ学校内で見ているはずなのに、野球部の指導者は高野連に提言しない。最近になってようやく一部が動き出したばかりです。