大切に思うがゆえに誰にも助けを求められない皮肉

80代の親の介護を50代の子が背負わなければならない事態やヤングケアラー問題、さらに、老老介護といわれる高齢者夫婦のどちらかが介護対象になった場合など、慣れない介護に疲れ果て、介護対象者を殺害してしまう、または、介護対象者から「楽にしてほしい」と乞われて殺害してしまうパターンもあります。相手を殺害した後、自分も自殺する心中事例も多い。

子であるならば親の介護をするのは当然だ、夫婦ならば相手の最期まで看取ってあげるべきだ、それもできずに「疲れたから殺した」というのは無責任だ、などと非難するのは簡単ですが、当事者にしてみれば、これも「選択肢のない袋小路」に追い込まれた挙げ句のやむをえない行動だったのかもしれません。

皮肉にも「家族を大切に思う気持ち」が強いがゆえ、「家族のことは家族がなんとかしなければならない」と自分自身を追い込み、誰かに助けを求めることも逃げることも休むことも許されない。でももうどうにもならない。そのあげくが、一番大切だったはずの家族を手にかけることになるのだとしたらなんと悲しい結末でしょうか。

そして、これは決して対岸の火事ではありません。今後、超高齢社会が進めば、ますますこの家族の介護の問題はよりマジョリティの問題として深刻化していきます。

病気中のサポート
写真=iStock.com/KatarzynaBialasiewicz
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「家族」という居場所に依存していないだろうか

だからこそ、行政においては、それを受け止められる仕組みが必要になります。というと、実際に行政に関わる人からは「すでにあります」という声もあがりますが、制度や仕組みがあることと、それを実際に住民が活用できるようにすることとは別です。活用されない制度はないのと同じです。

いざ悲劇が起きた時に「一声、相談してくれれば助けられたのに……」といいますが、身体的にも精神的にもボロボロになってしまった当事者にしてみれば、「そんなものがあるなんて知らなかった」「何をどう助けてくれるのかわからない」という状態かもしれないのです。

同時に、個人の意識としても「家族という居場所への唯一依存」に陥っていないかと考えるべき時にきているでしょう。

一緒に暮らす家族を大事に思うことはもちろん素晴らしいことですが、家族以外に頼れる相手が誰もいないという状況になっていないでしょうか。かつて安心な囲いだったはずの家族のカタチが、いつの間にか家族だけの狭い牢獄に自らを縛り付ける鎖になっています。「家族を頼る」ことと「頼れるのは家族しかいない」というのはまったく違います。