※本稿は、和田秀樹『70歳からは大学病院に行ってはいけない』(宝島社新書)の一部を再編集したものです。
無理に不調を探し出さないほうが健康を維持できる
高齢になると、誰しも体のどこかしら「不調」が出てくるものです。長年、肉体を使い倒してきて古びてきたのですから、ほころびが出てくるのは当たり前です。
私は以前、高齢者専門の病院である浴風会病院というところで働いていました。そこで、毎年多くのご高齢の方たちのご遺体を解剖していましたが、いくつものご遺体を見て気づいたことがあります。ご遺体のほとんどに、ご本人が自覚していなかったような病巣があったのです。
亡くなった原因は別にあったのですが、ご本人には自覚症状が最期までなかったけれど、病巣の状態としては、もし見つかっていれば深刻なものとして扱われていたであろうものも少なくありませんでした。
つまり、自覚症状を伴って表に現れている病巣は、実はほんの一部にすぎないということです。普段どおりの生活を送ることができるし、とくに痛みもなければ不都合もない。
当然、自分の内側にそんなものが巣食っているなど気づきようもないけれど、老いた体のあちこちには、無自覚のまま進行している病巣があるのです。
そうした「自覚症状なき病」は、何か問題があるでしょうか。もっと早くに精密な検査を行って、それらの病気の芽を見つけ出して、叩き潰しておくべきだったのでしょうか。そんなことはないでしょう。
自覚もなく、本人になんらの不具合をもたらさないのであれば、わざわざ体にダメージを与えるような手術や投薬などをする必要もないのです。
治療というのは、本人の不調を治し、できる限り心地よく暮らせるようにすることを目的としています。体内の病巣をすべてあぶり出し、本人の生活になんら悪影響を及ぼしていないようなものまで、無理やり根絶する必要はありません。
ところが、日本の正常値絶対主義や、やたら検査にばかり力を入れる風潮は、害のない病理までをあぶり出して、無理やり医療のメスを入れようとしたがる医者と、それをありがたがる患者を生み出します。
しかしそれは一体「誰のため」の医療なのか。製薬会社と病院側にとっては「需要」を掘り起こせるかもしれませんが、患者目線で考えたときに、果たしてそれは必要な治療だったのかという大きな疑問が残るのです。