「捕まったら捕まったでいい」という感覚
【宮台】なぜ杜撰な犯罪に手を染めるか。思い浮かべるのは、ねこぢるの漫画『ぢるぢる旅行記』(青林堂)のネパール編。「死んでいるのか生きているのかわからないような感じ」という名セリフがあります。同じ90年代末、ネットで集まった人が練炭自殺をする事件が頻発する。実際は、集まって場所を探しつつ移動する間に気分が変わり、未達に終わりがち。数回に一度しか「実行」に到れない。それを皆がわきまえていました。
そこには強い自殺念慮がないのです。「死んだら死んだでいい」という感じ。杜撰な犯罪の「捕まったら捕まったでいい」という感じに似ます。そんな感覚の拡がりの背景は何か。一口で、社会のどこでも「汝 you」として眼差されず、「ソレ it」として眼差されるということ。実はマルティン・ブーバー『我と汝』(1922年)の図式です。彼は20歳年長のフッサールを踏まえ、フッサールはフランス革命期=産業革命初期のカントを踏まえていました。
カントは二世界を区別します。体験の外にある物理世界と、体験の内にある人倫世界。人にとって世界は体験された世界。科学の観測装置と概念枠組みで得た認識も、所詮は認識=体験。体験を与える物理世界は確実に存在しても、人に与えられるのは、物理世界xを社会システムと心的システムが関数的に変換した体験世界y=f(x)です。ところがそれはもっぱら人倫世界(私やあなたや彼が織り成す人称世界)として現れます。
相手を“ソレ”として扱い、自分も“ソレ”として扱われる
【宮台】物理世界は決定論的。人倫世界は人の自由意思次第で非決定論的。フランス革命期、物理学は決定論のニュートン力学でした。この枠組みを展開したのが戦間期にかけて活動したフッサール。人称的に与えられる体験世界を生活世界と呼びます。体験された非人称的な物理世界が自然世界。生活世界外の非人称世界は自然世界のほかに市場や行政の世界を含みます。人間らしく生きようとするのは生活世界でのことです。
これをブーバーが噛み砕く。人称世界の核は「我と汝」関係。汝として眼差した相手から汝として眼差される。人は汝として眼差されて初めて輪郭と重みを与えられます。汝として見られてちゃんとする自分。汝として見られずにぼんやりしたままの自分。どっちが本当の自分か。答えは前者です。なのに相手を汝ならぬソレとして扱い、自分も汝ならぬソレとして扱われる界隈が拡がる。そんな人の生は実りがない=つまらない。
ソレとは入替可能な道具のこと。この点フッサールの同世代ウェーバーの認識が重なる。マルクスによれば資本主義的市場では誰もが入替可能な道具になるけど、ウェーバーによれば行政官僚制では手続き通り役割をこなせば誰でもいいという具合に人が没人格化します。ブーバーのソレとはウェーバーの没人格です。一連の思考は、産業革命以降の都市化で、人をソレとして扱う界隈が拡大する流れを背景にします。