軍国主義教育から民主主義教育への転換
そもそもいつから部活と自主性が結びつけられるようになったのか。その歴史的関係を紐解くと、戦前/戦後の区切りが重要であることがわかる。
戦前には、軍国主義的な教育が行われた。子どもを、国家の命令通りに動くような戦争の道具に仕立て上げようとする教育だ。「お国のために死んでこい」と命令されて、ロボットのように服従する兵士をつくろうとしてしまった。当然ながら、そこには自主性の欠片も無かった。
戦争が終わると、この軍国主義教育は間違いだったという強い反省から、「軍国主義教育は駄目だ。これからは民主主義教育だ」と大転換が試みられた。国民は、国家の命令に唯々諾々と従うのではなく、自分で考えて自分で行動する自主性をもたねばならない――。戦後の民主主義教育は、そうした自主性を持った国民を育てようとした。
では、自主性を備えた国民はどうすれば育つのか。カリキュラムや授業の内容を変えるだけで達成できるのか。そう簡単にはいかない。カリキュラムは大人が決めたもので、授業はそれを子どもに一方的に伝えるものに過ぎないからだ。自主性を大切に育てる方法をめぐって、当時の教育者は頭を悩ませた。
部活に「自主性」の理念が組み込まれた
そこで一筋の光が見いだされたのが部活だった。いわく…
自主性をもった人間を育てるためには、カリキュラムや授業の枠で生徒を縛ってはいけない。生徒自ら考えて試行錯誤したり、仲間同士で相談し協力したりすることが必要だ。つまり、生徒自身が中心になければならない。それはまさに部活じゃないか。部活は生徒がやりたいことを自らの力でやるものだ。部活の中心には自主性がある。部活を活用すれば、自分で考え自分で行動する自主性を持った国民を育てることができる――。
1940~1950年代の資料を紐解くと、戦後の教育者たちはこう考えて部活に「自主性」の理念を込めた。その結果、2008年には、冒頭に示した通り、国の学習指導要領に、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動」という文言が初めて追加された。
ただし注意しなければならないのは、これは、実際の部活で本当に自主性の理念が体現できているかどうかとは別の話であるということだ。教育者が勝手にそう考えて期待しただけに過ぎない。
だが、そう期待して自主性の理念を込めたことで、部活は、戦後民主主義教育にとって非常に大切な“教育的意義”を持つことになったわけである。