ドライのリニューアルは「やる。これしかない」
――販売量が減少し続けた「スーパードライ」は22年、前年比13.2%増の6888万箱(1箱は大瓶20本=12.66リットル)と販売量が2桁伸びました。難しいとされる主力商品のリニューアルを松山さんは成功させました。
【松山】正直に申し上げて、「スーパードライ」のリニューアルは私一人ではできなかった。できたのは、塩澤(賢一アサヒビール会長)のおかげなんです。(1981年にアサヒに入社して営業畑を歩み)業界を知り尽くしている塩澤と、外部から来た私は、デコボコがあってダイバーシティー(多様性)の妙がある。私は消費者視点から、(缶のふたを開けると精緻な泡が出る)「生ジョッキ缶」や「マルエフ」再発売、(飲み方の多様性を推進する)「スマートドリンキング(スマドリ)」など新しいことをやってきました。
特に「スーパードライ」を変えるというのはマーケの責任者だった私にとって重大なテーマでした。変えなければいけない、しかし、いつのタイミングでどの程度やるのか。決めるのは、経営の一丁目一番地だったのですが、(社長だった)塩澤が「腹をくくって(スーパードライの初めてのリニューアルを)やる。これしかないんだ」と、みんなの前で言ってくれたのです。
――具体的には、いつ、どういう場で塩澤さんは表明したのですか。
【松山】リニューアルのプロジェクトが発足したのは20年末。塩澤が、役員と本社の部長クラスが集まった会議で明言したのは、21年初頭でした。重い言葉だった。
圧倒的に強い「業務用」が一夜にして消えた恐怖
――反対はなかったのでしょうか?
【松山】この時はなかったのです。というのも、コロナ禍が20年から始まり、業務用の需要が一気に喪失されたから。「販売量が減り続けているスーパードライをいつかは変えなければならない」、と実は誰もが感じていたと思います。コロナにより、「いつか」という未来が、突然やってきてしまったのです。恐怖でした。「スーパードライ」が圧倒的に強かった業務用という安定基盤が、一夜にして消えたわけです。実は、塩澤の言葉をみんな待っていたのだと思います。
――日本企業は、重要な決断を先送りしたり、できなかったりするケースは多いように思えます。例えば自動車業界のEV(電気自動車)化は、当初日本が先行しながら、EVシフトへの決断を先送りしたため、気がつけば世界から後れをとっています。