恋愛は「成功のために」バッサリと切り捨てる

ここで、先生も親も心配しているのは、ただ一つ。大学受験への影響だ。重要なのは一生を分ける受験勉強だ。その一方で、それと比較して若者の恋はあまりに「危なく」、「無駄」なこと。だから、学生が恋愛をし始めたら先生や親は止めさせる。この対応は中国では当たり前という。

ノートや教科書で勉強する人の手
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ここで天秤にかけられているのは人生の成功に必須の勉学成就とそれを邪魔しかねない非生産的な恋愛だ。年頃の子どもを持つ親として、子どもが恋に落ちてジェットコースターの如く心が揺れ動き、受験に悪影響が出ないかと心配する気持ちは理解できる。

しかし、そこまで合理性で割り切れないのが人間の複雑さであり面白さなのだが、中国はこの辺を「成功のために」バッサリと切り捨てる残酷なところがある。厳しい環境で生き抜くための合理性信仰の強さなのか、元来の感情世界への軽視なのかは不明だが、情緒や情感をことのほか重んじる日本の感覚とは大きく異なる。

日中では恋愛の位置づけが根本から異なる

実は、興味深いことに恋愛に対する感覚の違いは両国の文学の世界でも認められるようだ。日本の大学院で比較文学の博士号を取得し、中国の大学で教鞭に立つ日中文学の専門家は、両国の恋愛を扱った文学作品の位置付けの違いを以下のように指摘する。

「日本では恋愛を題材とした『万葉集』や『源氏物語』などが公的な空間でも認められ、一貫して楽しまれてきた。一方で、中国ではそれとは対照的に古来より中国の公式の場で認められた『文』の範疇には、恋愛についての作品は含められなかった。

一時的に南朝時代(5〜6世紀)は恋愛関係の作品が認められたこともあったが、時代が下るとともに批判を受けるようになった。両国の恋愛作品の文学における位置づけは大きく異なる」という。

どうやら、日中では恋愛の位置づけが歴史を通じて根本から異なるということのようだ。こうした歴史における恋愛の位置づけの違いは日中それぞれの特色を掘り下げる上でも非常に興味深いテーマだ。いずれにせよ、こうした中国独特の恋愛文化が今日の中国の若者の恋愛と結婚観にも影響を与えているのは間違いないだろう。