人民が王に抵抗するイングランド

ロックの理論が生まれた時代背景を説明しましょう。イングランドは議会の母国です。13世紀から議会があり、15世紀には下院議員を選挙で選ぶようになりました。ロックの理論が生まれる前から、市民の間には、いい人を選べば国を変えることができるという考え方があったんです。

ジョン・ロック氏(写真=GRANGER/時事通信フォト)
ジョン・ロックの肖像(1632~1704年)(写真=GRANGER/時事通信フォト)

ところが1603年に、スコットランドの王で王権神授説を信奉していたジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位して、議会を無視して勝手に税金を上げ、続く息子のチャールズ1世も王権神授説を信奉し議会と対立しました。絶対王政を信奉する王と、議会政治を進めてきたイングランドの人たちがうまくいくわけがありません。

そして三王国戦争(ピューリタン革命)が起きてクロムウェルが率いた議会派が勝利をおさめ、チャールズ一世は処刑されるのです。三王国戦争は、日本ではクロムウェルがピューリタン(清教徒)だったことからピューリタン革命と呼ばれていますが、議会派にはピューリタン以外もいましたし、連合王国では、三王国(イングランド、スコットランド、アイルランド)戦争と呼ばれていますから、ここではその呼び方をします。

この三王国戦争の後、1649年にイングランドは共和国となりクロムウェルを護国卿とするのですが、彼の死後、共和政は維持できませんでした。

名誉革命の正当性を理論的に裏付けた

そこで1660年に王政復古して、チャールズ1世の息子がチャールズ2世として即位します。ところが、チャールズ2世の跡を継いだ弟のジェームズ2世が王権神授説の熱烈な信奉者で、やっぱり議会とうまくいかない。議会はジェームズ2世を追放して、ネーデルラントに嫁いでいたジェームズ2世の娘のメアリーと、その夫オラニエ公ウィレム3世を招聘し王位につけました。これが名誉革命(1688~1689年)です。

チャールズ1世を処刑しても社会はいい方向に進まなかったことをイングランドの人たちは記憶していましたから、このときは王を処刑しませんでした。血を流すことなく行われた革命なので、無血革命と呼ばれることもあります。

市民政府論』が出版されたのは、名誉革命の翌年です。ロックの理論は、名誉革命の正当性を理論的に裏付けました。先に述べたようにロックは次のように説きます。「親に世話をしてもらいながら大きくなるから、親に従うことが習慣になっている。だから王に従うことにも疑問をもたない。

この王様はとんでもないと思っても、やっぱり王様なんだから自分たちが我慢したほうがいいと諦めてしまう」と。だけどロックは、諦める必要はないと丁寧にロジックを紡ぎました。