母親の強制入院
母親は、鍋を火にかけたまま放置して焦がしたり、炊飯器のスイッチを入れるのを忘れたりが続き、自然とキッチンから足が遠のいていく。同居から2年目くらいの頃には、馬場さんが料理をするようになっていた。
しかし、母親の物盗られ妄想は日に日にひどくなり、夜中にあちこちの引き出しや押し入れを開けたり、馬場さんの部屋に押し入ってきたりして、「通帳返して! 何にも買えへん! 財布も返して! 買い物したら返すから!」と騒がれる。
もちろん、馬場さんは盗っていない。いつしか馬場さんは、母親が来る夜中が恐怖になっていた。
そんなある日の早朝、馬場さんは母親に「通帳返して! 財布返して!」と叩き起こされた。
瞬間、馬場さんは頭の中でプツンと切れる音がしたのを聞いた。
「わかった! 泥棒かもしれない! 警察呼ぼう!」
そう言って馬場さんが110番すると、警察官がすぐに来てくれた。馬場さんは玄関を開けると小声で、「母は認知症なんです!」と警察官に告げる。すると警察官は、「わかりました! お母さまと話します」と言ってくれた。その言葉を聞いた馬場さんは、涙が出そうになった。
「こんなことで警察を呼んではいけないことは分かっていましたが、一人っ子の私には相談するきょうだいもいないし、叔父叔母は高齢だし、このままだと母の首に手を置いてしまいそうでした。精神的にも限界だったんだと思います」
母親は警察官を見るなり、
「あら~、わざわざ来てもらわなくても良かったのに~。この子がおおげさなのよ~」
とよそ行きの声と表情。しかし警察官も心得ていて、「お母さん、あなたは幸せなんですよ! このあたりでも、高齢のご夫婦2人きりで、大変な思いで暮らしている人がいっぱいいらしゃるんです。お母さんは、娘さんとお孫さんと暮らせて、こんなに幸せなことはないです。仲良く暮らしてください」とたしなめてくれた。
だが、それで母親が静かになったのはたったの半日。夜にはまた、「通帳返して! 財布返して!」が始まった。それだけでなく、母親はますます言いたい放題になっていく。
元旦の朝に、「あけましておめでとう」とあいさつすれば、「めでたいことあらへん!」と返される。馬場さんが料理をすれば、「辛い! 臭い! 焼けてない! 何時間かかって料理してんねん! も〜! 一人のほうがマシやわ〜!」とボロクソに言われる。
「何度母に殺意を抱いたかわかりません。父が亡くなったら施設に入れてやろうと考えて、何とか耐えていました」
限界が来ていた馬場さんは、認知症外来の医師に相談。すると医師は、「少しお母さまを預かります。あなたはゆっくり休んでください」と言ってくれた。母親を強制的に入院させて、馬場さんを休ませてくれたのだ。
「物盗られ妄想と暴言行動で、元々ヒステリックな母は、いつも険しい顔をしていました。毎日、母の暴言を聞いていた私は、朝起きるとプチ欝で、生きているのがつらく、『今日は何が起こるのか?』と考えると動悸までしてくるようになっていました」
母親をだますことに良心の呵責はあったが、父親も息子も世話している馬場さんは、ここで自分が倒れるわけにはいかない。「いつもの診察」と言って母親を連れ出し、診察室に入った後は看護師に任せることに。
不安な馬場さんは、高校生の息子に同行してもらう。大好きな孫が来てくれたことで、母親は普段より機嫌が良かった。母親は診察室に入ると、いつものように医師と話をする。最後に医師が、「では今日から、入院していただきます!」と告げた途端、母は、
「嫌だ〜! 触るな〜! やめて〜! 帰る〜!」と大暴れ。看護師の手を振りほどき、床に大の字になって手足をばたつかせた。
心を鬼にした馬場さんは、看護師たちに一礼すると、息子とともに病院を後にした。