※本稿は、シンシアリー『韓国の借金経済』(扶桑社新書)の一部を再編集したものです。
日本人には理解しにくい韓国人の「剝奪感」
まず、日本ではほとんど聞かない言葉ですが、「剝奪感(バクタルカム)」について簡単に説明しますと、「当然、自分のものであるはずのなにかを、奪われたとする感覚」のことです。
日本語の場合、剝奪となると、何かの資格を持っている人に対し、相応の理由でその資格を取り上げる場合に用います。ある人物がすでに持っているライセンスかなにか、たとえばスポーツのチャンピオンの座などを、何かの違法行為がばれたことにより「剝奪」、そんなときに目にします。ここまでは韓国語でも同じです。
でも、日本語で「剝奪感」という言葉は、そうですね、少なくとも私は聞いたことがありません。この剝奪感の核心は、実際に持っている権利や資格ではないにもかかわらず、いま自分がそれらを所有していないのは、「持っているはずなのに、いま現に持っていないのは、誰かに奪われたからだ」と思っている点です。ハッキリ言って、勘違いです。この点、先に書いた剝奪の意味とは大きく違います。
持っていなかったのに「奪われた」という矛盾
なにせ、持っていたわけでもないのに、「奪」された(うばわれた)と書く時点で、すでに矛盾しています。「持っていた」に相応するなにかの理由が無いなら、それは奪われたものとは違うし、実際に奪われたことが無いなら、奪われた感じがどんなものなのか、分かってすらいないでしょう。いろいろ不自然です。
でも、剝奪感を訴える人たちの論拠は、実に簡単です。「当然、持っていたに違いない」と信じてやまないからです。そんな人たちに「いや、違うでしょう」と言うと、「なんで人を見下すのだ。お前は悪い人だ」と怒られます。
この剝奪感の定義は、私が適当に創作したものではありません。韓国語にしかないと言われている言葉で、辞典にも載っています。高麗大学韓国語大辞典を直訳しますと、「権利や資格など、当然自分にあるはずのなにかを奪われたと感じること」で、心理学関連の専門家などは、「相対的剝奪感」と言います。