人つき合いは「前提が違うこと」を前提にする

先ほど、前提が違うと話が通じないと書きました。でも、前提が違うことを前提にすれば、つき合うハードルは下がります。

たとえば東京で暮らしている人と、地方で生まれ育った人では、なかなか話が通じないかもしれません。でも「住んでいるところが違うから仕方ない」ということを前提にすれば、つき合うハードルが下がります。

これがもし家族になると、お互いの「わかってほしい」度合いがぐっと上がってくるから、「どうしてこの程度のこともわかってくれないんだ」と、相手に理解を求めることになります。私も昔はそうでした。夫婦みたいに非常に距離が近い関係だと、ちょっと意見が食い違っているだけで、「なんでわからないんだ」と、相手の意見を直したくなる。それで何時間も大ゲンカをしたこともあります。

そういう議論を繰り返してわかることは、「ほんの少しのことでも、相手の意見を変えさせることは難しい」ということです。

「なんとなく」のコミュニケーションでいい

外国のいいところは、通じないという前提から始まることです。これは楽です。どうやったら人と通じ合えるかなんて、悩む必要がない。しかも通じなくていいやと割り切ると、不思議なことになんとなく通じるのです。こちらのたどたどしい外国語をわかろうとしてくれる人はたいてい親切な人です。だから外国語は下手でいい。下手だと相手も一生懸命に理解しようとしてくれます。

養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)
養老孟司『ものがわかるということ』(祥伝社)

日本にいても同じようにすればいい。いつも私は別に伝わらなくてもいいと思って喋っています。私が書いた本を読んだ人から、「先生、なんかぶつぶつ言っていますね」と言われたことがあります。この「ぶつぶつ」が面白いと。私の文章は、理屈や論理がすっと通っているわけじゃありません。あちこちよそ見をしたり、寄り道をしている。そうすると「ぶつぶつ」になるんです。

でも、ぶつぶつ言っていると、それを読む人は適当に解釈して受け取ってくれます。日常のコミュニケーションもそのくらい、いい加減でいいんです。

日本文化の連歌とも似ています。連歌では何人もの人が、句を次々と詠み継いでいきますが、厳密な論理でつないでいるわけじゃありません。どんな句が詠み継がれるかは、その場の空気や雰囲気しだいです。日本にはそういう娯楽の伝統がありました。その意味では、日本人はそういう「なんとなく」のコミュニケーションが上手だったはずです。

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